時は大正末期。珠阯レより北東に位置する肥沃な土地、浦野目の一帯を統べる、たいそうな富と権力を持った好事家がおったそうな。
この男、巨大な敷地の一角に酒池肉林の園を築き、各地より召し上げた生活困窮者や娼婦を次々に放り込んでは、非人道的な行為と非合法な品による悦楽の宴を長きにわたり繰り広げていたという。
昼夜を問わず立ち込める淫靡な煙と臭い。苦悶の、恐怖の、あるいは喜悦の蛮声。それらを恐れて地元の者は近寄ることはなく、館はいつしか魔窟と呼ばれるに至ったとか。
「まあ、しかしながら、時代の流れでその富豪も没落しましてな。切り売りされて最後に残った土地の一角と、そこに建つ館の権利は私の父の手に渡りました」
スーツ姿の太っちょ男は、ハンカチでしきりに額の汗を拭った。
応接室の空調は過不足なく効いているどころか肌寒いほどだったが、この代表取締役どのにとってはどうやら、快適の基準を満たせるものではなかったらしい。
「私が相続したのは数年前ですが、所有しているだけで、実際にこの目で見たことすらないのですよ。写真ならここにありますが……あぁ、もうご存じでしたな。ご覧の通り、これがまあなんとも不気味な洋館でして。今でも、地元住民からの噂が絶えんのですよ。館の中でうごめく人影を見ただとか、入ったら二度と戻れないだとか、絹を裂くような悲鳴が聞こえるだとか……」
ハア、とため息をついて、またひとしきりハンカチで顔面を撫ぜる。
豪奢なソファに向かい合って座ったパオフゥは、組んだ腕を指でトントンと叩いた。
「ゴロツキ連中がたまり場にしてるってぇ可能性もあるな。ポリ公にパトロールでもして貰っちゃどうだ?」
隣に座ったうららが相槌を打つ。しかし、相手は首を横に振って話を続けた。
「警察は、事件性があるとは判断できないと言いましてね。動いてくれんのですよ。おおかた、廃墟マニアがこっそり撮影でもしとるんだろうと。かと言って、私の経営する会社の社員をやって調査させるわけにもいかんのでね。あなた方の都合とはいえ、代わりに見てきてくださるってんなら、そりゃあもう。大歓迎といいますか。こちらからお願いしたいぐらいでして、はい」
今にも両手を揉み合わせそうな勢いで、太っちょ社長は身を乗り出した。そして、じっとりと汗ばむ顔を強ばらせて声を潜める。
「ただ……くれぐれも、ご注意を。まったく手入れがされてない廃墟ですから、どんな危険があるやら分かりません。万一のことがあっても、責任は、取りかねますので。ご同意いただけましたらば、ここにサインを」
そう、確かにその書類に連名でサインをした。いかなる事態が起きようとも甲は乙には一切迷惑をかけず、甲の責任および費用負担により問題を解決するものであり、乙は何らこれを賠償ないし補償することを要しない、といった内容の書類だ。
仕事が関わっていなければ、こんな同意書を取り交わしてまで、誰が好き好んでいわくつきの洋館など訪れたいものか。
全ては、今回のターゲットがその「廃墟マニア」であったことに端を発する。
人に忘れられて荒れ果てた建物のうら寂れた様子にロマンを見いだし、全国各地の廃墟のうち、まだ名の知られていない秘境を巡っていたのだという。その“開拓”の旅のさなか、彼は行方をくらましてしまった。彼の辿った足取り、親しい友人らの証言。それらから浮かんできた最も有力な手がかり、それがこの「還らずの魔窟」なのであった。
しかし、たかが個人所有の洋館である。いくつものダンジョンを踏破してきたパオフゥとうららにとって恐るるに足るものではない。そう侮り、二人は安易な気持ちで同意書にサインをした。
あの時はまさか、こんなことになるとは思っていなかったのだ。
「いったぁ……」
したたかにぶつけた腰を押さえながら、うららは身を起こした。あたりは暗く、灯りがなければほとんど何も見えない。
落下の直前、とっさに握りしめた懐中電灯のスイッチを押すと、幸いにも無事に点いてくれた。光を向けると、同じく起き上がったばかりのパオフゥが、ずれたサングラスを直しているところだった。彼は肩を打ち付けたらしく、逆の手で痛そうにそこをさすっている。おろしたてのシャツも長い髪も、何もかも埃まみれだ。
「……やられたな。まさか、廊下ごと真っ二つになって落とされる仕掛けだったとは」
廃墟となった館に足を踏み入れた二人は、人間の通った痕跡を丁寧に調べていった。新しい足跡は、門の付近では多数見受けられたが、奥に進むにつれて少なくなっていた。やはり、不気味な館に興味本位で近づいてみる者はあれど、割れた窓を乗り越えてまで中に踏み入り、無謀な探索を試みようとする者は、それほど多くないようだった。
壊れた調度品や瓦礫の散乱する広間を抜け、長い廊下を歩いている時、彼らはゴウンというくぐもった音を聞いた。嫌な予感がし、急いで安全な所へ退避しようとしたが、時すでに遅し。箱の底が抜けるように床が真ん中から割れ、瞬く間に宙に投げ出されたのだ。
「聞いてないわよぅ、ここまで大がかりな罠があるなんて。うぷっ、ゲホッ!」
頭を振ると砂埃が飛び散り、思わず咳き込んでしまった。全身に付いたザラザラした汚れをせっせと手で払いながら、うららは立ち上がって上を見上げる。館の中全体が暗いとはいえ、今は日中。ごくごく僅かに差し込む太陽光の影響で、懐中電灯を向けずとも廊下の天井の色が見えている。その天井の遠さから推察するに、おそらく……地下四階ほどの深さまで落とされたようだ。
切り立った土壁のそこかしこにヒビが入っており、格子状に組んだ木の土台が露出している。とはいえさすがに、それを取っ掛かりにして登る、といったことはできそうもない。となれば、他のルートを経由して地上に戻るしかない。
パオフゥはアタッシュケースから出した小型ランタンをかざす。声の反響具合からなんとなく予想していた通り、あの廊下をそのまま部屋に落とし込んだような、そんな細長い形状をした部屋であった。幅は約三メートルほど、長さは十五メートルほどもあろうか。あたりには謎の器具や脚の折れた椅子、古びた布片、その他のごみごみしたものが散らかっており、それらを繋ぐように至るところに蜘蛛の巣がかかっていて、とにかく汚い。歩くごとに、何かしらの破片がパキパキと靴の下で砕けるのが分かる。
風通しのない空間は息苦しく、じわじわ込み上げる暑さが正常な思考を奪っていくようだ。
しばらくの間、パオフゥは壁を叩きながら歩いて回った。一周して戻ってきたところに、ようやく身繕いの終わったうららが問いかける。
「どう?」
「四方全て、正真正銘の壁っぽいな。隠しドアなんぞありゃしねぇ」
「ええぇ〜〜っ!!」うららは悲痛な叫びを上げた。「じゃ、じゃあ、どうやって上に登ればいいのさ!?」
「おとなしく助けを求めるしかねぇな、こりゃ」携帯電話を取り出してプッシュするが、しかし、その手が止まる。「おいおい、まさかだろ? 圏外だとよ」
「……ホントだ。私のも」
二人は握りしめたそれを振ったり、アンテナを伸ばしたり、電波をつかまえようとうろうろ歩き回ったりした。
うらぶれた館とはいえ都会の一等地に建っており、対象外エリアということは流石にないのだが、いかんせんこの状況である。y座標に大きな問題がありそうだ。
「ねぇ、ちょっと、ヤバいじゃん。このまま出られなかったら、どうしよ……」
「おーっほっほ、お困りのようねぇ」
突如降ってきたけたたましい笑い声に、二人は勢いよく振り返った。
ランタンの光に照らされた女は、軽く足を交差させたポーズで悠然とそこに立って……いや、宙に浮いている。一目で人ならざるものであると分かる理由はそれだけではなかった。赤く燃える炎のように逆立った長い髪、そしてもちろん、背中から大きく突き出た羽がゆらゆらとはためいているからだ。
サキュバスだ。
一般的に彼女らが好んで着る露出度の高い服ではなく、だらしなく伸びて埃に汚れたTシャツとスウェットを身にまとっているのが気になるが……ともあれ、このように悪魔と出逢うのも、悪魔からコンタクトを仕掛けられるのも久々であった。
「ここに落ちてきた人間はだいたいすぐに死んでしまうのだけれど。貴方達はピンピンしているのねぇ」
警戒する二人の周りをゆるやかに浮遊しながら、じろじろと眺めてくる。
「ま……まあね」面食らったようにうららが答えた。「なんたって、ペルソナ使いだし。多少のことじゃ何ともないっていうか」
「へぇ、そんなのがあるんですのね。長い間ここで暮らしてるから、ペルソナ使い? なんて初めて聞いたわぁ」
気さくな悪魔であった。いわく、この館には、別の種類の悪魔も棲んでいるのだという。そいつらは動物の腐肉を好み、館に迷い込む人間や犬猫を落とし穴の罠にかけては、死体が程よく腐敗したころに食べに来るのだとか。
そうして、満腹になったら、またレバーを操作して床を閉じる。もう数度、そんな「狩り」が行われているということだ。
彼女は、床の上に打ち捨てられた朽ちた行李の中から、何かごつごつした塊を二つ取り出す。どうやら……人間の頭蓋骨のようだ。汚れてはいるが、まだ比較的新しいように見える。
「うっ……」うららが顔をしかめる。
「どっちかは、俺らの探してたターゲットかもしれねぇな」
「私たちには必要のないものだから、遠慮なく持って帰っていいわよぉ。ホント、久しぶりに生きて動いてる人間に会えて、嬉しいわぁ」
「……サキュバスなんてのは高慢で陰気な連中が多い種族だと思ってたが、ずいぶん友好的だな」訝るように、パオフゥ。「お前さん自身は、人間を食らうことには興味ねえんだろう? 何の目的があって俺たちに近付いてきた?」
「きっと、アレだわ。パオのアレを狙ってるに決まってる。そうなんでしょ、アンタ」
うららが、シュッシュッと拳を繰り出しながら牽制する。
「まあ、そう思われるのも無理ないわねぇ」サキュバスはため息をつき、頬に手を当てる。「もちろん、昔はお世話になったわよ〜、アレにね。人間の若いオスから搾りたての精液、とびきり濃厚なやつね。大好物だったわぁ。若い時分には毎晩、人間の巣を飛び回って、搾精に勤しんだものだわ。でも、年を取るうちに体型がこんなになっちゃって」
Tシャツの上から、腹回りをぐいと掴んでみせるのだった。よくよく観察せずとも、確かに、顎の下にはうっすらと二重の線が見えるし、頬や二の腕のラインなどにもかなりの丸みがある。
「人間のオスの射精成功率が下がってしまって。それに、私自身、味の好みがすっかり変わってしまったんですの。今はもう、直接吸うのは無理ね。あんなギトギトした濃いヤツを飲んだら、ひどく胃もたれして、翌日に響いてしまいましてよ。吹き出物もできちゃうし、もう最悪よぉ」
「はあ……悪魔にもそういう加齢現象があるとは知らなかったわ」
とりあえず、拳を下ろすうらら。
「じゃあさ、普段、何食べて生きてんの?」
「ここにいれば、特に不自由はしませんの」サキュバスはその場でくるくる回って両腕を広げた。「かつてこの脱出不可能な地下牢で、当主の命によって、昼夜を問わず行われ続けたふしだらな淫行の数々。もう、それはそれは、普通の人間なら目を覆わずにいられないほどの凄まじいものだったそうですの。今でも壁や床に染みついたそのかすかな残り香、精の匂いを少しずつ啜りながら暮らしているんですわよ。私一人が細々と暮らしていくぐらいなら、向こう五十年ほどは余裕よぉ」
スゥー、ハァー、と深呼吸をしている。
「変わった悪魔もいたもんだな……まあ、居心地がいいんなら好きにすりゃいいが」パオフゥは頭を掻き、天を見上げた。「俺たちはここから出てぇんだ。お前さん、飛べるんなら一人引っ張り上げてくれねぇか?」
「そうしてあげたいところだけど、今のままじゃ無理ね」
にべもなく、サキュバスは言った。
「年のせいで小食になっちゃって、もう十年以上も直に吸精をしていないんだもの。人ひとり抱えて飛ぶなんて無理よぉ。貴方達だって、年がら年中精進料理しか食べずにいて、急に大荷物を運べって言われても無理でしょう」
「そんなぁ。となると、やっぱ、アレを飲んでもらうしか……ないってこと?」
複雑な顔で自分をじっと見つめてくるうららに、パオフゥは慌てた。
「じょ、冗談じゃねぇぞ。命が助かるためとはいえ、俺のアレを栄養剤がわりにサキュバスにくれてやるなんざ、お断りだぜ」
「こっちだって嫌よぉ」サキュバスが不服そうに唇を尖らせる。「胸やけしてまで人間を助けたって、私にはメリットありませんわ。そうじゃなくて。もっとお互いが幸せになれる交渉をしに来たのでしてよ」
彼女はおもむろにTシャツの中に手を突っ込み、ことさらに豊満な胸の谷間から小さなものを取り出した。
それは、口の部分に複雑な装飾の施されたガラスの小瓶だった。
「この小瓶は、出したての精気を勝手に吸い取って溜めてくれる魔法の便利アイテムですわ。精液は要りませんので、精気をここに。瓶いっぱい、たっぷりとお出しなさいな。そうしたら、手助けして差し上げてもよくてよ」
「せ、精気だぁ!?」大いに動揺しているパオフゥ。「そ、そんなもん、出せっていきなり言われても困るぜ……」
「あの。質問なんだけど」横からおそるおそる手を挙げるうらら。「液、の方なら、パオも出し方はまあ、分かると思うのね。でも、気、の方はどうやったら出せるワケ……?」
「簡単ですわ。性的なことを実行したり考えたりする時、意識せずとも、精気は勝手に体から出てきますわ。あとは、瓶に勝手に溜まっていくという寸法よ」
得意げな顔で頷いているサキュバスに、うららはほっと息をつき、なるほどと頷いた。
「そっか。じゃあ別に、直接絞られたりしなくていいんだ。よかったね、パオ。それなら、ちょっと端っこに行って、一人でチョイチョイっと済ませてくればいいわけだから、楽勝……」「何を言ってるんですの?」
サキュバスは食い気味に発言を遮った。ずい、と顔を近づけてくるその迫力に、うららは思わず後ずさった。目が怖い。
「助かりたいくせに自分は何もしなくていいと思ってるなんて、バッカじゃな〜い? マスターベーションで得られる精気が、性交で得られる精気の何分の一だか、貴方ご存じ? そっちのオス一人に任せてたら、多分十日ぐらいかかってよ。その間、あなたぼーっと座ってるだけですの? というか人間、そんなに生きていられますの? 死に際のオスが何発出せると思ってますの? ね。お分かりいただけるかしら? ここから出るにはあなたも協力しなきゃダメってこと」
ものすごい早口であった。
勢いに圧倒されてうららは黙った。それからゆっくりと、顔が赤らんでいった。
「えっと……きょ、協力っていうのは、要するに、アレをその」
「そうね、一発ヤったら丁度小瓶いっぱいぐらいになるはずですわ」
サキュバスは腰に手を当てて凄絶な笑みを浮かべた。
「さ。それじゃ、さっさとセックスしていただける?」
本当に、よもや、こんなことになろうとは。予想だにしていなかったし、予想できようはずもないではないか?
暗くだだっ広い部屋のその隅っこに、二人は気まずそうに佇んでいた。
壁際にパオフゥのアタッシュケースとうららのリュック、そして埃っぽい床の上に小瓶がぽつんと置かれており、弱めたランタンの灯りの届く範囲にサキュバスはいない。うららが「せめてできるだけ遠くへ離れていてほしい」と泣きついて、承諾を得たためだ。
すでに日は暮れかかっており、見上げる遠い天井も闇に沈もうとしている。待っていても助けは来ない。
うららが意を決したように口を開く。
「えっと……私は別に、気にしないからさ。緊急の時にやる人工呼吸とか心臓マッサージみたいなもんでしょ。ちゃちゃっとやっちゃってさ、パパっと出よ。そんで、お互い無かったことにしちゃえば、いい話だしさ」
何も答えずに、パオフゥは視線だけを彼女に向けた。うららは目線を外したまま、両手の爪同士を擦り合わせるようにして弄っている。
「なんて言うか。犬に噛まれたとでも思って、忘れてくれれば」
パオフゥは薄く笑った。
「犬に噛まれた……って、普通は逆だろう。こういう場合、不利益を被るのは大抵女の側だ」
「ま、まあ、そうかもしんないけど」
「お前さんの方はちゃんと忘れられるのか? 犬に噛まれたと思って」
「そりゃ……そのつもりだけど」
ほんの少しの逡巡を滲ませながら、うららは応えた。
「ふうん。なら、問題ないな。ちゃちゃっと……やっちまうか」
言うが早いか、背中に腕が回ってがっしりとホールドされ、次いで首筋に至近距離で息がかかるのをうららは感じた。「えっ、ちょっ……や、ヤダ」思わず身をすくめるが、既に遅かった。耳の後ろの髪越しに、彼の口元がやんわりと触れるのが分かる。狼に仕留められた獲物のように、うららは動けなかった。
薄手のシャツの襟の上から首を優しく甘噛みされ、硬直したまま悲鳴を上げてしまった。
「ぎゃあ、い、いきなり何すんのさ!! こ、こ、このスケベ!!」
「スケ……あのなあ、今から何やるか本当に分かってんのか?」
「わ、分かってるけどさ。噛み方がエロいのよぅ」
半泣きになりつつ、胸の前で腕をクロスして自分を抱きしめるようなポーズを取って防御する。よほど刺激が強かったらしい。彼女のキャラに似合わぬその初心な反応を見ていると、パオフゥはなにやら無性にムラムラしてくる。渇きにも似た何かが、体の奥から燃え上がってくるような。
小瓶を見ると、不思議なことに、モヤモヤとした煙が中で揺らめいているようだ。先ほどまでは綺麗に透き通っていたはずだが、これは、今まさに発せられた精気を吸い取っている、ということなのだろうか。つまり、まだ直接肌に触れてすらいなくとも、精気は生じている。
であるならば。なにも、本当に交わらなくとも問題ないのではないだろうか。
各工程での抽出効率を上げる、すなわち、普通にセックスをする以上に興奮できさえすれば……。
「覚悟が決まってるところ悪いが、最後までする気はねぇよ」
顔を寄せたままごく小さな声で囁くと、うららは不安げな表情になった。
「え? で、でも……」
「心配すんな。俺に任せときゃいいんだよ」
自信たっぷりにニヤリと口角を上げたパオフゥは、急にうららの体を離し、自らを庇うように胸の前に置かれたその両腕を引き剥がした。呆気にとられる彼女を気にも留めず、ポケットから結束バンドを取り出して、両の親指を一纏めに縛り付けてしまう。
「えっ、なにコレ。いつもケーブル縛るのに使うやつじゃん」
「ああ」
「ちょ、ちょっと、外れな……」うららはもがくが、一ミリの隙もないその戒めから拘束された指を外すことは不可能だった。「何やってんの!? 冗談きついって。コレ、外しなさいよ」
パオフゥは無言で彼女の腕を掴み、頭上高く持ち上げる。片方の手で二本の腕をいとも容易く封じられたうららは、たちまち青ざめた。
土壁に押し付けられ、その衝撃でパラパラと微細な欠片が降ってきた。思わず目を閉じたうららの唇を、ぬるりとしたものが這う。
思わずうめき声を上げた唇に、ぬるつく舌が、強引に割り入って来た。
「……んっ……ふ……っう」
口付けと呼ぶにはあまりにも荒々しい行為だった。唇を舐り、余すところなく擦り合わせて、食むように味わう。まさに、貪られる、という表現が相応しかった。
うららは、この男の普段との落差に戸惑った。こんな情熱的なことをできる男だとは思っていなかった。自分に対してはいつもスカした態度で、クールぶっているくせに。
緊張に固く閉ざされた上顎と下顎が、食いしばる力を失ってついに解放されたと見るや、隠れていた舌をすかさず捕らえて吸い上げられた。横暴な侵入者に嬲りものにされ、内側から食いつくされる感覚。抑えきれずに漏れる互いの呼気と、絡み合う舌の湿った音。
「んぁ……は、はぁ……な……長……っ」
激しいキスの合間にくぐもった抗議の声が上がったが、それは通らなかった。
時間をかけてねぶられ尽くした唇がようやく自由になった時、派手な色のリップはすっかり落ち、溢れ落ちた唾液で顎まで濡れていた。頭上の壁に両手を縫い付けられたまま、うららは濡れた唇から弱々しく吐息を零し続けた。暗がりでも分かるほど熟した頬に、伏せたまつ毛の影が薄く落ちている。
パオフゥもまた、見慣れた女の見慣れぬ様相に、背筋を震わせていた。こんなそそる表情を見せる女だとは思っていなかった。想定していた以上に嗜虐心と性欲を煽られて、歯止めが効かなくなりそうだ。
首だけで振り返って小瓶の様子をちらりと伺うと、ほんの数滴程度だが、うっすらと色の付いた液体が溜まっているような気がする。
──まだまだ、二パーセントってところね。もっとペース上げて頑張って頂戴な。
遠くから、囁き笑う声が聞こえてきた。……ような気がする。
ケッ、だとすりゃ上出来じゃねえかよ。パオフゥは心の中で毒づく。この程度のペースだって、多く見積もって十時間もあれば達成はできるわけだ。だが、身体を張って協力すると言ってくれたうららの覚悟を無下にするのは忍びないし、お互いに、そんな長時間の摩擦に耐えられるほどの頑丈な唇を持ち合わせているわけでもない。
となれば、次のステップだ。
空いている方の手で、彼女のブラウスのボタンを腹のあたりまで外していく。薄いグレーのキャミソールをスカートから引き抜いて捲り上げると、くすんだブルーのサテン地に黒レースの施されたブラジャーが露わになった。
二つの布が連なる胸の中央部分には、比較的くっきりとした谷間が存在を主張している。しかし、よくよく見れば、あるべきはずの腋側の肉の盛り上がりがない。どう見ても、必死にかき集めて寄せて作られた偽りの谷間であった。
「……あんまり……ジロジロ、見ないでよぅ」
恥じらいながら泣きそうな声で懇願してくる姿が、哀れさをさらに強調する。
身体の芯がカッと燃えるような感覚がして、パオフゥはゴクリと喉を鳴らした。いっそ暴力的と言っても差し支えないほどの激情。この女をめちゃくちゃにしてやりたいという獰猛な欲望。それを抑えるのに苦労した。
ブラウスの空きから手を突っ込んで、背中のブラホックを乱暴に外した。感情に任せて引きちぎらなかったことを褒めてほしいぐらいだ。
支える力を失って、ささやかすぎる二つのふくらみは、たちまちその本来の形に戻った。なだらかなラインに対しては不釣り合いなサイズのカップが、胸から少し浮いてしまっている。
「ジロジロ見るなってか。そりゃ困ったな……さぁて、どうするかな?」
パオフゥはその隙間に革手袋の指を引っかけて、ゆっくりと上へずらす。壁に頭を預ける形で反らされた胸を、下から見上げるような体勢で睨みながら、焦らすように、じわじわ、じわじわと持ち上げていく。
うららは羞恥と屈辱、それから多分に恍惚の混じった視線でそれを見ていた。たった一本の指の動きだけで、少しずつあらわにされていく胸。彼の瞳に自分の乳首が映ってしまう。いや、まだギリギリ見えていないかもしれない。だとしても、もう曝される瞬間は目前に迫っている。それともやはり、とっくに視られてしまっているのかも。想像するだけで気が狂いそうになる。
実際のところ、小さな胸の先端にぷっくりと色づいているその蕾を、パオフゥはまだ拝んではいない。すぐにでもそこを剥き出しにしてやりたい、かぶりついて吸い上げてみたいと逸る気持ちを捩じ伏せながら、持ち上げたブラの隙間に、ふう、と息を吹き込む。
意識を集中しすぎて敏感に尖った乳首を生暖かい風に撫でられ、うららの身体は反射的にビクンと震えた。
「あうっ……」
生々しい喘ぎ声を上げてしまった恥ずかしさに、耳まで赤く染めて身悶える。
パオフゥが黙ったまま急に手を離したので、ブラは音もなく彼女の胸元に落ちた。こんなに焦らさないで、一刻も早く引き毟って燃えるような視線で焼き尽くしてほしい、そのまま含まれて口の中で優しく転がされたい……と内心で望んでいたうららは、失意のため息を漏らした。
が、次の瞬間。
布地とレースと革手袋越しに、彼の指が、かり、とその先端を引っ掻いたのだ。
「んあぁっ!」
うららは思わず叫び、反射的に上体をさらにのけぞらせた。
一本の指で優しくノックをしたかと思えば、二本の指で擦るように。緩急を付けながら小さな固い粒を刺激してやると、その開きっぱなしの口から、あ、あ、という小さな喘ぎが零れる。
彼女が乳首で感じている様子は、直にそこを目で見て、触れて、味わう以上に煽情的であった。もどかしい興奮が性欲を刺激する。
パオフゥは身を屈めて、露わになっている腹部からブラのきわまで、ちろりと出した舌でゆるゆるとなぞってみせた。すべらかな肌の肌理、そして微かな汗の味。ブラの布地が鼻に当たると、甘くかぐわしい体臭がより濃密に感じられる。
甘噛みと呼ぶにはやや強すぎる力で、彼は、乳房の下側の柔らかな部分に歯を立てた。衝撃に息を詰めたうららを気にも止めず、ぎゅう、と噛む。場所を少しずつ変えながら、いくつもの歯形を残していく。痛みを感じるか感じないかのギリギリのラインを見極めるのが巧すぎて、うららは眩暈がしそうだった。この男はいつだって器用なのだ。何をやらせても……そう、こんなことでさえ。
仕上げとばかりに、音を立てて吸い上げる。きちんとブラを着用したらギリギリ隠れてしまうような絶妙な箇所に、小さく、赤いキスマークが残った。
パオフゥは身体を起こして、ゆっくりとその全体像を眺める。
いつものように頭頂で結われていたはずの髪がすっかり解け、汗ばんだ首筋と顔に纏わりついた幾筋かを残して、肩から無造作に流れ落ちていた。荒い息に上下する胸元は大きくはだけて、乱れた着衣から噛み痕だらけの柔肌が覗く。フォークでぐちゃぐちゃにされた食べかけのショートケーキの白い表面のようなそこに、果実にも似た小さな赤い印がひとつ、ぽつんと落ちている。それが、ひどく背徳的に見えた。
湧き上がる欲求は抑えがたく、どんどん膨らんでいく。このまま素っ裸にひん剥いて、勢い任せに突き入れて、壊れるまで滅茶苦茶に揺さぶってやりたいところだが、あいにく理性がまだ残っている。パオフゥはせめて彼女の腰を強く抱き寄せて、その中心に熱く滾った下腹部を押し付けた。
「あっ……あぁ」
ごり、と音がしそうなほどの硬さを感じて、うららはたまらず身を捩る。抵抗の動きではない。むしろ恭順の意を示していることは明白だった。自由の利かない両腕を頭上に残したまま、彼女の表情は恍惚に染まり、下半身はより強い刺激を求めて擦り寄っているのだから。
服越しにとはいえ、互いに善いところを押し付けあって息を荒くしているのだから、これはある種セックスをしていると言えるかもしれないな、とパオフゥは思う。現に小瓶の中を見れば、薄紫色の雫はじわじわと溜まっていくペースを上げ、三分の一ほどまで容量が増してきているようだ。
しかし、まだまだこんなものでは足りないと言っている。小瓶も、そして本能も。
パオフゥは革手袋を軽く咥えて脱ぎ、床に放り投げた。
膝丈のタイトスカートの裾に素手を差し入れながら捲り上げると、パンストに包まれた腿が埃っぽい外気に晒された。黒いストッキング生地の向こうに、レースのショーツが淫靡に透けて見える。
体勢のせいで少々ずり落ち気味になったパンストの股に指を突き立て、ぶつりと穴を開けた。
「あっ!?」
思わず大きな声を出してしまったうららを気に留めるでもなく、パオフゥは生地にぐいと指を押し込んだ。繊細な糸で編まれた生地はいとも容易く、よこしまな指先が侵入するのを許してしまう。軽く引き裂いていくつかの大きな穴を作る間、うららは両脚を閉じることも許されずもじもじと恥じらった。
「やだ、ちょっと……なんてことしてくれてんのよぅ。履けなくなっちゃったじゃん……」
「悪いな。後で弁償してやるよ」
穴の中に指を這わせて柔らかな腿を撫で回した後、ショーツの隙間からするりと奥へ忍び込む。
「あ!」
「おや? 随分とヌルヌルに汚れてるじゃねぇか。こっちも新品を買って返さなきゃなんねぇな」
「ば、馬鹿……そんなの、言わないでよぅ」
恥ずかしさのあまり、腕で顔を隠してしまううらら。
「おい、ちゃんと見てろよ」耳元に口を埋めるようにして囁く。「今からもっとスケベなことするんだぜ? 自分が何されるのか、しっかりと目に焼き付けておきな」
ぞくり、と身を震わせたうららは、腕の端から熱にとろけた眼差しを片方だけ覗かせた。
彼女が見つめる中、パオフゥはスラックスの前を寛げる。欲情に顔を火照らせたうららは、思わず目を逸らして恥じらった。少し引き下げられたパンツから硬く勃起した陰茎が飛び出す。
おもむろに、彼はパンストに開けた穴に自らのものを差し込んだ。面積の少ない布地をぐいと引っ張って、僅かにできた隙間を器用に掻い潜りながら、それは、やや角度をつけて彼女のショーツの中にぎゅむと捩じ込まれた。
決して肉体同士が結合しているわけではない。しかし、この行為自体は紛れもなく「挿入」と呼ぶべきものであった。
彼が小刻みに腰を律動させると、ショーツとパンストによる締め付けが肉棒に刺激を与えるのだ。控えめに整えられた下生えが、ちょうど裏筋を擦ってくれる位置にあるのも具合が良い。
「ちょ、ちょっと、コレ……」
しかし、うららはやや戸惑った様子を見せている。
「あん? どうした。ってか、ずっと腕上げてたら疲れるだろ。こうやってしがみついてな」
「い、いや。別に疲れてはないけど……」
拘束された手を自らの首に回させてしっかりとホールドさせると、安定感がぐっと増した。そうして夢中で腰を振っているうちに先走りの露で茂みが湿り、動かす度にぐちぐちと音を立て始める。ショーツの上部を押し上げると、濡れた布地が亀頭の先を包み込んで強い摩擦が生じ、あまりの気持ち良さに腰が溶けそうになる。
「あの、パオ?」
「あぁ……すげぇいいぜ……イッちまいそうだ」
「いや、そうじゃなくてさ。待って、ちょっと待ってよ! 一旦ストップ!」
「なんだよ……今いいとこなのにうるせぇな」
パオフゥが不承不承身体を起こすと、首から外した両手でバシバシと頭を叩かれた。
「イテ! お、おい、何すんだよ!」
「コレ、全っ然よくないんですけど!? なんか毛ぇのとこ擦ってるだけで全然感じないし、そのくせ汁でびちょびちょになって気持ち悪いし、激しくするからパンツの股が伸びてきてるし……もう、サイテー! お気に入りの下着だったのに、なんてことすんのよ。この変態野郎!」
「いや、だから下着はまた買ってやるって言ってるじゃねぇか」パオフゥは怯んだ。「それに極論、今はお前じゃなくて俺が気持ちよくなる方が重要だろ?」
「そうじゃないでしょ!? ハァ……あのねぇ」うららは挑発的な目で睨む。「もっとスケベなことするからよく見とけ、なんて言われて期待しちゃってるワケよ、こっちは。で、コレでしょ。確かにアンタはエロくて興奮するかもしんないけど、私は別にそんないい思いしてないじゃん。しかも同じ下着が返ってくる保証ないんだから、全然割に合ってない」
なかなかの正論で殴られてぐうの音も出ないところへ、うららはさらに追い討ちをかけようとする。
「こんな目に合わせておいてさ、その相手を満足させずに勝手にフィニッシュしちゃうわけ? そんなの、ダサすぎなんだけど。部屋の隅っこで一人でオナニーしてるのと大して違わないじゃん?」
「なに?」
これには流石に、カチンときた。
「やむを得ぬ事情でオカズにされる羽目になった哀れなお前さんに、なるべく配慮したつもりだったが。そこまで言われちまったら、大人しく引き下がるわけにゃ行かねぇな」
急に温度のなくなった彼の表情を見て、うららは一瞬たじろいだ。
「は、配慮って……何がよ。どういう……」
言い終わる前に、身体を掴まれてくるりと裏返されたかと思うと、壁に強く押さえつけられた。衝撃でまたしても土壁の粉が散らばって、うららは目を閉じる。
腰の上まで一気にスカートが捲り上げられ、無防備に突き出された尻のあたりでビリ、という音がした。そして、すっかり伸びて緩んだショーツのクロッチ部分から、なにか硬くて太いものが入ってきた。欲望に滾る杭を濡れた秘所へと押し当てられて、うららは知らず声を漏らした。
「あぁ……っ!」
くちくちといやらしい音を鳴らしながらかき混ぜられて、一気に全身が熱くなる。音もさることながら、互いの性器が接触してしまっていることへの背徳感による興奮が凄まじい。
「や、ちょっと……アソコがくっついて、んだけど」
「……こういう直接的なことをせずに済ませるための配慮、だったんだがな」
「あ、アンタ、最後まではしないって」
「挿入はしねぇよ」
震える両脚を、両側からパオフゥの手が押さえつけてしっかりと閉じさせた。腿の間のぬるついた隙間に、いきり立ったものを何度も突き立て、こじ入れ、擦り付ける。ごつごつした肉の棒が荒っぽく割れ目の上を行き来する度に、ぬるんと広げられ、中をなぞられ、いやらしくめくられる。
「あっ、あ……こ、これダメ、やぁっ」
「自分で煽っといて、今さらダメってのは通らねぇぜ」
自由の利かない両腕で、うららは壁にすがって必死に耐えた。飛び散る汗と、パンストを伝って滴る愛液の匂いで噎せ返る空間に、二人分の跳ねる吐息が重なる。
いつの間にか腰の前に回った彼の手が淫らに膨らんだ赤い芽を摘まみ、さらに、緩んだブラの下に這わされた逆の手が乳首を捏ね回す。
「あぁんっ! あっ……」
身体をくねらせて快感を逃がそうとするが、背後に覆い被さられて首筋を噛まれては身動きが取れず、うららはめちゃくちゃになった。あらゆる性感帯をダイレクトにかつ同時に刺激されて、瞼の裏に火花が散った。こんなに悶え狂わされながら、まだ貫かれてはいない、という事実が信じられない。もしも体の奥深くまで受け入れて交わったなら、一体どうなってしまうのか。
一方のパオフゥも、自らがかつてないほどに昂っているのを感じた。打ち付ける度にズタボロのパンストと伸び切ったショーツが竿を扱いてくるのに反して、その先にあるぐしょ濡れの肉ひだが包み込むような柔らかい熱を与えてくる。厚みのある花弁を左右に押し広げると、その弾力でもって先っぽに優しくキスをするように吸い付いてきて、くちゅり、と小さく鳴るのもたまらない。その感触が、音が、温かさが、じわじわと、そして確実に彼を追い込んでいく。
「あ、や、やだ……はぁ、あ、あっ……あぁ」
「はぁ、っ……ぁ、……くっ」
事ここに至って、どちらも、肝心なものは何一つ目にしていない。相手の秘部がどんな形をしていて、どのように膨らみ、どんな風に色付いているのかを、いまだ知らないのだった。しかし、触れている箇所から、交換する体の熱から、混じる体液から、ペルソナの共鳴から、多くのことが伝わってくる。完全に信頼して身を重ねていること。気持ちいいと感じていること。今この瞬間、互いを欲していること。二人は高揚して、一つに溶け合うような感覚を共有した。
そして、絶頂のときは訪れた。引き抜いた陰茎を手で扱くと、勢いよく放たれた精が床の上に散る。長い長い吐精の間、その恍惚とも苦悶とも取れる表情を、壁にぐったりと凭れて首だけをこちらに向けたうららが、乱れた髪の隙間から潤んだ目でぼうっと見つめていた。
突然、パアッと何かが光る。
振り返ると、床に置かれた小瓶が微かに揺れてガラスの蓋がキュッと回転し、光は収束していった。中には濃い紫色の液体がたっぷりと揺蕩っている。
「……どうやらノルマは達成できたようだな」
パオフゥが絞り出すようなため息を吐くと、苦笑が返ってくる。
「……疲れたね」
改めて彼女を眺めてみれば、本当にひどい有様だ。
髪はぐちゃぐちゃで、土の欠片がところどころに散らばっている。前を全開にされほとんど脱がされたシャツ、ホックを外されて胸に乗っているだけのブラ。尻の真ん中あたりまで捲り上げられたタイトスカート、腿から上はビリビリにされて使い物にならなくなったストッキング、股のところが伸びたショーツ。
たった今思う存分出したばかりだというのに、何やらムズムズしてくる。
影になっていてよく分からないが、よれたショーツの隙間から、ぷっくりした陰唇の丸みがちらりと見えているような気がして、パオフゥは急いで顔を背けた。これ以上見ていると、また反応してしまいそうだ。
アタッシュケースからニッパーを取り出して彼女の両指を戒めているバンドを切った後、縺れ絡まった髪を手櫛で解いたり全身の埃を払い落としたりしていると、いそいそと目的の品を回収にやってきたサキュバスの黄色い声が響き渡った。
「キャハーッ! すっごぉい。とーっても濃厚な精気のエキスがいっぱい取れてるじゃありませんのぉ。どれどれ、早速いただいちゃうわぁ」
瓶の蓋をキュポンと抜いて、蛇のように長く伸ばした舌の上に雫を垂らした瞬間、電撃を浴びたように固まってしまった。
「こ、これは……!?」
言葉を失っている。
パオフゥは、狼狽して思わず呼びかけた。
「な、なんだよ? まさか、使い物にならないなんてこたぁ、ねえよな?」
「え、じょ、冗談でしょ? 苦労して絞り出したのに、そんなの困るわよぅ」乱れた服をようやく直し終わったうららが、結いかけの髪を放り出してサキュバスに詰め寄る。「こっちは言われた通りに頑張ったんだから、結果はどうであれ、アンタも誠意を……」
「こんなの知らないですわ〜〜〜〜〜〜!!」
翼と両腕を広げてくるくる回転するサキュバスを、二人は呆然と見ていた。
「馥郁と香る芳醇な色情のアロマ……そこにたなびく、この微かな、そしてふくよかな苦みのエッセンス……体験したことのない複雑でスパイシーかつ立体的な味わい……」
小瓶を何度も傾け、手のひらに少しずつ出してはペロペロと必死に舐めている。
「何ですの!? この謎のキレとコクは!? 独特で癖になる風味は一体!?」
「……えーっと」うららは眉を下げ、肩をすくめる。「気に入ってもらえたってことでいいのかな、コレは」
かつて男の精気だけを味わってきたであろうサキュバスは、当然、男女の行為で生じる精気をテイスティングする経験など無かったわけであって、「苦み」や「独特の風味」とはおそらく不純物の味なのであろうから、そりゃ確かに初めての経験だろうな……とパオフゥは思った。
「まあ、口に合ったんなら何よりだ。それじゃあ約束通り、上に連れてってくれるな?」
全身に気合いを漲らせたサキュバスは両腕に力こぶを作ってみせる。
「オホホホ、お安い御用ですわ!!」
「わわっ!?」
近くにいたうららの両腕を掴んでバサバサと舞い上がる。床の埃がブワッと全方位に飛び散ったので、パオフゥは思わず腕でガードして顔をしかめた。宙に浮かびながら、サキュバスは悪魔らしくニタニタと笑って見下ろしている。
「でも。条件をもう一つ追加させてもらいますの」
「なに……?」
パオフゥは戦慄し、身構えた。
宙ぶらりんになったうららは、落とされまいと必死にサキュバスの腕に捕まっている。「ちょ、ちょっと、何言い出すのよ! 早く降ろしなさいよぅ!」
人質を取って、断れない状況にしてから条件を追加するとは、なんと姑息なやり口だろうか。悪魔の名にふさわしい悪辣さではないか。
「てめぇ……何が望みだってんだよ、言ってみやがれ!」
パオフゥは啖呵を切った。
「いただいた精気、なんだか妙に味わい深くて、私、病みつきになっちゃいましたわ。ですから……」サキュバスはぺろりと舌を出して笑う。「これから、貴方達の事務所に棲ませてもらいますわ!」
「は?」
「え?」
二人は目が点になった。
「ウフフ。オーッホッホッホ! あの手この手で事あるごとにつがわせて、たっぷり生産してもらいますわよぉ! 今後ともヨロシクですわぁ〜〜!!」
「ぎゃあ、ちょっとぉぉぉぉ!!」
プロペラの如き激しい羽ばたきで空気を打つと、ものすごい勢いで一階に向かって吹っ飛んでいった。うららの悲鳴も一緒に遠ざかっていくのを見送りながら、パオフゥはやれやれと腰に手を当てた。どうやら、面倒事はまだ終わらないようだ。
だが、自分でも意外なことに「それも悪くはないかもな」などと思ってしまうのだった。
移動手段として利用価値があるのは、たった今、証明されたばかりだ。ならば、某探偵事務所のように、バックヤードで飼ってみるのも悪くない。それに……たまには悪魔の小賢しい企みにかこつけて、色に溺れてみるのも一興だろう。
その時は今回の分まで、彼女の隠された部分を全て暴いて、穴が開くほど、舐めるように眺め回してやるのだ。そう心に決めた。