演者の心得

車を降りたパオフゥはドアをいささか乱暴に閉めると、眉間に深く刻まれた皺を隠そうともせず、視線をまっすぐこちらへ向けた。どう見ても、虫の居所が良いとは言いがたい様子だった。
 紙袋を提げていない方の手をスラックスのポケットに突っ込んで、荒々しい歩調で近付いてくる。
 対するうららは、駐車場脇の路地に立って、神妙な顔つきで彼を待っていた。甲羅の中に引っ込んだ亀のように首を縮こまらせて、キョトキョトと落ち着きなく視線をさまよわせながら。
「おい」
 ドスの効いた声ですごまれて、うららはようやく、恐る恐る彼と目を合わせた。
「なんで俺がこんな茶番に巻き込まれなきゃなんねぇんだ? あぁ?」
 パオフゥはゆっくりと、一語一語区切るように吐き出した。
「いや……その……だから、ゴメンってば」弱った顔でうなだれ、ますます小さくなっている。
「今日のところは何とかなったとして、その後はどうするってんだ? ずっと騙し続けるわけにゃいかねえだろうが」
「それは、その……なんて言うか」
 いつになく歯切れが悪い。
「まあ、なんとかするわよ。……とにかく、今だけ。今だけでいいから。お願い、パオ」
「チッ…」
 切羽詰まった表情ですがり付くうららを、身振りで軽く払いのけながら、パオフゥはこの上なく渋い顔をした。

 ことの発端は、数日前にかかってきた一本の電話だった。

 二人がクライアントとの打ち合わせを終え、駅の裏手で一服していると、うららのカバンの中で携帯電話が鳴り始めたのだ。
 うららはディスプレーの文字を見て顔を曇らせ、急いでスタンド灰皿にタバコを押し付けた。手のひらで口元を覆い隠すようにして「……もしもし?」と小声で応じるうららをちらりと眺めたパオフゥは、さり気ない動作で背を向けた。言うまでもなくこれは『何も聞かねぇから気にせず話していいぞ』という無言の意思表示である。
 彼女はしばらく声を潜めてなにか話していたが、やがて電話を切ると、青ざめた顔で告げた。
「父さんからだった。……母さん、倒れたって」
「なに?」あやうく、パオフゥはタバコを取り落とすところだった。
「ごめん、先に帰ってて。私、病院行ってくる」
「おい! 待て、芹沢!」
 言い終わるが早いか、タクシー乗り場に向かって駆け出すうららを、パオフゥは慌てて呼び止めた。
「今日はもう急ぎの用事はねえ。送ってやるから、乗りな」

 車の中で、うららは小刻みに膝を動かして落ち着かないようだった。最後に母親に会ったのは昨年の正月だと言う。
「今年はほら、アンタとマーヤと三人でつるんで過ごしたでしょ。だから、実家には帰らなかったの」
「三人でつるんだ? お前と天野が俺を巻き込んだの間違いだろ?」
 パオフゥはボソリと呟きながら、あの嵐のような年の瀬を思い返した。
 平穏に暮れてゆく大晦日の夜、突然、美しい着物で完全武装した舞耶とうららが、彼の部屋に押しかけてきたのだ。そして『どうせ一人で暇してるんだからいいでしょ』という暴論を振りかざす女たちに半ば引きずられるようにして、初詣に同行させられた。
 刑事課所属の宿命として雑踏の警備に追われている克哉を、舞耶が見つけた。冷やかし半分で新年の挨拶をしに行ってみると、彼は略帽の下から冷ややかな視線をパオフゥに投げかけ『なんだ? 両手に花を自慢するために来たのか?』と恨めしげなセリフを吐いた。
 それからルナパレス港南の部屋へ戻り、新年一発目の酒盛りをした。イカサマだのヘタクソだのと罵り合いながら、三人はカードゲームや人生ゲームに興じ、うららお手製の三段重おせちから好きなメニューを独り占めできる権利を賭けて争った。
 食って飲んで、大人げなく騒いで、そうしているうちに皆すっかり酔い潰れてしまい、電気カーペットの上に死屍累々となって眠ったのである。
「そういやあの時、確か昼過ぎにお袋さんから電話来てたよな」
「うん。飲みすぎでアタマ痛かったから、またそのうち帰るわって適当に流しちゃったんだけど……こんなことになるなら、すぐに顔出しときゃよかった」
 うららはすっかり意気消沈していた。
「……まあ、あんまり気落ちしなさんな。とりあえず、無事に手術は終わってるんだろう?」
「うん……まだ意識戻ってないらしいけど」
「お前さんの元気な声を聞かせてやりな。それが一番の薬かもしれん」
「……うん」
 車内は柔らかな沈黙に包まれた。気まずさの一切含まれない、こういった静かな時間を彼女と共有するのにも、すっかり慣れた。それきり二人は、病院に着くまで黙ったままだった。それぞれの思いを巡らせながら、ただ、窓の外の景色を見ていた。

「送ってくれてありがと。また連絡するね」
 病院前の歩道で振り返ったうららに、いいからさっさと行け、と手の甲で合図する。
「こっちのこたぁ気にすんな。お袋さん孝行してこいよ」
 うららはまだ何か言いたそうにしていたが、小さく頷き、踵を返して足早に去っていった。それを見送ってから、パオフゥはゆっくりと車を発進させた。
(親孝行……か)
 記憶の糸を手繰り寄せるように、遠い面影を追う。
 "孝行のしたい時分に親は無し"という言葉を体現するように、両親は彼が一人前になる姿を見ず鬼籍に入ってしまった。だが、ある意味ではそれで良かったのかもしれない。立派に育った検察官の息子が海外で頓死、遺体にも引き合わされずに泣き暮らす、そんな日々を送らせずに済んだ。復讐のために手を汚した自分を見せずに済んだ。
 事務所へ帰ってきたパオフゥは、センチメンタルな気分を引きずりながら近場のショットバーに足を運び、グラスを傾けた。
 琥珀色の液体の向こうに、懐かしい思い出がおぼろげにちらつく。

(おいおい、またゲームで負けたぐらいで泣いて。負けず嫌いだな、ハハハ)
(まったく、誰に似たのかしらねぇ?)
(そりゃ、お前じゃないか? ほら。ぐずってないでカードを並べるぞ)
 パオフゥは苦く笑った。諦めの悪い性格は昔から変わらない。

(……これがアケミちゃんで、これがヨリコちゃん、こっちの大きいのがマイちゃん? すごいわね! 誕生日プレゼントをくれる女の子がこんなにいるなんて、モテモテじゃない)
(俺に似たんだな! さすがは俺の子だ)
(もう、何言ってんの。……ねえ、薫。将来、女の子を泣かせるようなマネだけはしちゃダメよ。約束よ。フフ、楽しみねぇ。どんなコを連れてくるかな? 明るくてマメで心根のいいお嫁さんを見つけなさいよ)
(薫を大切に思ってくれる人なら、それだけで十分だよ。そうだろ?)
(ええ、そうね……)
(…………)
(俺は……)

 ポケットから鳴り響く着信音が、パオフゥを急に現実に引き戻した。うららからの電話だ。ハッとして少し酔いが醒めた。
「芹沢か。どうした? まだ病院か?」
『あ……パオ』電話の向こうのうららが情けない声を上げた。『ど、どうしよう……ちょっと困ったことになって、もう、どうしたらいいか……』
 パオフゥは胃のあたりがヒヤリとするのを感じた。
「まさか、容態が悪いのか? 気をしっかり持てよ。なんとかしてやりたくても、俺にゃどうにもできねぇ。電話で良けりゃ、こうして話し相手になってやっててもいいが……」
『いや、そ、そうじゃないの。ごめん、説明するから』
 うららは深く息を吸って、吐いた。
『母さんが、麻酔切れても目ぇ覚まさなくてさ。私、ずっと、枕元で呼びかけてたわけ。私はここにいるわよ、お願い、目を覚ましてよ、ってさ。まだ彼氏だってちゃんと紹介したことないし、結婚式も見てないじゃない、勝手に逝くなんてやめてよ、って言ったのよ。……あ、いや、アンタは分かってると思うけど、私、今んところはフリーだし、結婚の予定もないからね。とりあえず、今んところは』
 雲行きが怪しくなってきたな、とパオフゥは思った。
「……それで?」
『んーと、それを横で聞いてた父さんが勘違いしてさぁ。そうか、付き合ってる相手がいるのか! どんな人だ? いつ結婚する予定なんだ!? とか勝手にテンション上げてくわけ。そしたらその騒ぎで母さんも目ぇ覚ましてさ。ベッドの上で弱々しく笑いながら、アンタもようやくいい人に巡り逢えたのねぇ、って言うわけよ』
「……」
 パオフゥは頭を掻いた。
「意識戻って良かったじゃねぇか。おめでとさん。じゃ、切るぞ」
『ちょ、ちょっと!? 待ってよ。待ってってば! 話はまだ途中でしょ!?』うららの悲痛な叫び声が響いた。『お願いしたいことがあるのよぅ!!』
「聞くまでもねぇ、お断りに決まってらあ。お前さんの彼氏のフリして会ってくれってんだろ? やってられるかよ、阿呆。そもそも、誤解だってちゃんと言や済む話だろうが。なんでさっさと否定しねぇんだ?」
『だってさ、めちゃくちゃ喜んじゃってて、言いづらくなっちゃったんだもん。……ほら、こんなことがあったばかりでしょ。この先なにかあった時、私を一人ぼっちで遺していくのは心残りなんだって。そりゃもう、神輿でも担ぎ出しそうなぐらいの大喜びよ』
 パオフゥは長い溜め息をついた。
「……別に、役者は俺じゃなくたっていいだろ? 他の奴に頼めよ」
『えっと……仕事何してるのとか、どんな人なのとか聞かれてさ。ほ、ほら。今、私にとって一番身近な男ってったら、パオじゃん? 苦しまぎれに答えてるうちに、人物像が完全に、パオに、なっちゃってたのよね。それに、まさか、今すぐ会いたいなんて言い出すと思ってなかったし。その、誤算っていうか……』
「……」こめかみのあたりが痛くなってきた。
『お願い。お礼はちゃんとするから、少しだけ、会ってやってくれないかな? 母さんと、父さんと、私。三人を一度に助けると思ってさぁ……』
「あぁ、もう、泣きそうな声出すんじゃねぇ! わかったよ、本当に一回だけだからな!」
 電話を切った途端、彼はがっくりとカウンターの上にうなだれた。生来、情に厚いところのあるパオフゥは、あっという間に押し切られてしまったのである。

 そして場面は、冒頭の一幕に繋がるのであった。

 パオフゥはうららに案内されて、病棟の奥へと進んだ。休日ということもあり、廊下では多くの見舞い客とすれ違った。立ち話をしている入院患者もちらほらいる。
「お願いしてる立場でこう言っちゃなんだけどさ。その金ぴかスーツ以外持ってないわけ?」
「うるせぇ! 俺の一張羅なんだよ。これで来るに決まってるだろうが」
 さすがにアクセサリー類は置いてきたが、スーツと髪は急にどうにかできるものではない。
「しっかし、リハーサルなしかよ。言っておくがな、うまくやれる自信が全くねえぞ、俺は」
 柄にもなく、緊張した面持ちのパオフゥ。
「リハーサルって……芝居じゃないんだからさぁ。人生は一度きり、アドリブで行くっきゃないのよ、アドリブ。あとはノリ!」
 いつも通り、能天気でマイペースなうらら。
「ったく……どうなっても知らねぇからな」
 パオフゥがボヤいている間に、病室の前に着いた。大きなスライドドアの前に立ったうららが軽くノックをすると、中からいらえがあった。男性の声のようだ。目でパオフゥに(行くわよ)と合図をして、うららは、引き手をぐっと握った。
 明るい光に満ちた部屋の中で、まず、窓際に置かれた椅子とテーブルが目に入った。その奥のベッドの横に、同じ形の椅子を置いて座っていた男性が、読んでいた本を置いてゆっくりと立ち上がった。
「……連れてきたわよ」
 決まりの悪そうな顔をしたうららが、曖昧な手つきで背後のパオフゥを示した。「し……失礼します」さらに決まりの悪そうな顔のパオフゥが、今すぐに帰りたい気分でいっぱいなのを必死で堪えながら頭を下げる。
「やあ、遠いところわざわざ来てもらって悪かったね。うららの父です。初めまして」
 取り立てて特筆すべきところもない、平凡な男性だ。だが、人好きのする笑顔が似合っている。
 パオフゥは、急いでもう一度深々と頭を下げた。
「あ、初めまして。その、ご挨拶が遅くなりまして、申し訳ありません。なんと言うか。うらら、さんと、その……ですね。おっ、お付き合いを。させていただいている、」
「パオさん?」
 口上を述べ終える前に、掛け布団に埋もれていた女性が目を覚まして声を出した。訪問者の顔を見ようと、点滴のチューブが繋がれた腕で布団を押さえて起き上がろうとしている。
「母さん、暴れちゃ駄目だよ」うららの父がそれを介助しながら、パオフゥに向かって笑った。「君が来るのずっと待ちわびてたからねぇ」
「まあ、まあ、うららがいつもお世話になってます」
 ベッドのヘッドボードに寄り掛かるように座って、小さく頭を下げる。こちらも特に目立ったところのない、ごくごく普通の中年女性といった印象だ。思ったより元気そうな様子に、パオフゥは安心した。
「せっかくお会いできたのに、こんな状態でごめんなさいね。腸閉塞やっちゃって、ここんとこ切ってるから、まっすぐ座ると痛いのよ」
「いえ、こんな時にお邪魔してしまって、こちらこそ申し訳ありません」パオフゥはぎくしゃくと歩いて行き、うららの父に紙袋を差し出した。「ほんの気持ちですが、お見舞いの品です」
「これはどうも、お気遣いありがとうございます」
「まあ、すみません。私達の方からお呼びたてしたのに。それにしても……」うららの母が、感心したように唸った。「日本語、お上手なのねぇ」
「は、はあ……まあ」
「あ、ねえ。立ち話もなんだしさ、ほら、パオどうぞ」
 うららが両手に椅子を持ってきて、仲良く二つくっつけて置き、片方に座るよう促した。照れたように笑っているのを見て、(ここぞとばかりに彼女ヅラしやがって……)と内心で舌打ちをするパオフゥであった。

 それから一時間以上の間、一家とパオフゥは、和やかな雰囲気の中で歓談した。二人がいつどこで出会ったのか、どのようにして愛を育んでいったのか、根掘り葉掘り聞かれる羽目になって、パオフゥはほとほと弱り切った。
 だが、心底嬉しそうな顔をしている夫妻を見ていると、ここでガッカリさせるわけにはいかない……という妙な使命感に駆られる。うららの説明と辻褄が合わなくならないよう、出会いのエピソードや親しくなったきっかけなどを、切り取ったり継ぎ合わせたり、多少話を盛ったりしながら、なんとか語って聞かせた。二人は、ずっとニコニコしながら何度も頷いていた。
「誰に似たのか、向こうっ気が強くてねぇ。そのくせ、抜けたところもあるし、一緒にお仕事してると、ご迷惑おかけすることも多いでしょう?」
「いえ……。気が強いように見えて、優しい女性だということは、ちゃんと分かっています。それに……よく気を遣ってくれるので、助かっています。仕事の面でも、それ以外でも」
 訥々と、ぎこちなさの抜けきらない口調ではあるものの、それは、嘘偽りのない本心だった。彼の隣で聞いていたうららは、その真摯な語り口に照れていた。
「ありがとう。正直、さっき初めて会ったときは、その恰好を見て、うわー怪しい感じの人だな、大丈夫かな? って思ってたけど……」
「……」
 自らのファッションについて『漢としての粋というものを余すことなく体現している』という矜持を持っているパオフゥは、そこだけは一言物申したい気分であったが、つとめて感情を押し殺し、平静を装った。
「君がうちの娘を愛してくれて、本当によかった」
 うららの父はパオフゥの手を取って固く握りしめた。決して、過分な力がこめられていたわけではない。だが、彼は、ズキリと鈍く痛むものを感じた。
(……俺は……)
 泣きつくうららに絆されるままに、こんな下手な小芝居を打ってしまっている。だが、このまま、この純朴な夫妻を欺き続けて本当にいいのだろうか。バレるかバレないかの問題ではない。自分の心に背き、後ろ暗い気持ちを抱き続けることになって、本当に後悔しないのか。
 そんなことを考えていると、
「そうだ、よかったら、今日、うちに泊まっていってくれないかな?」
 突然、はたと手を叩いたうららの父が、予想外のことを言い出したので、偽のカップルを演じる二人は目を見開いた。
「えっ?」
「は?」
「いやね、ほら、母さんが数日入院するでしょ。だから寂しいじゃない?」やや薄くなった頭の後ろに手をやる。「しばらく家のことはうららがやるって言ってくれてるんだけど、まあ、でもね。せっかくパオフゥ君来てくれたんだから、泊まってってくれよ」
 パオフゥは冷や汗がにじむのを感じた。
(じょ、冗談じゃねぇぞ。これ以上寿命を縮められてたまるか!)
「いや、その、今日は……帰ります」言い終わった後で、慌てて付け加えた。「こんな時にご厄介になるのは、心苦しいので」
「と、父さん。パオは明日仕事なんだし、引き止めちゃ悪いわよ」うららが助け舟を出す。「またいつか、そのうちでいいじゃん」
「なーに言ってんだ、明日は俺だって仕事あるんだから。遅くまで付き合わせたりしないよ。それに、こんな時だからこそ、だよ。ねえ、人助けだと思ってさ」
 ほらまた出たぞ。何かと言えば人助け人助け、俺は正義のヒーローかよ! と、パオフゥは心の中で毒づいた。

 だが……結局、押し問答の末に、彼は再び絆されてしまったのだった。

「…………………………」
 パオフゥは、見知らぬ家の湯船に浸かっていた。一番風呂を勧められ、ゆっくり温まるように言われたので、素直に従っているところだ。
 風呂から上がる前に追い焚きボタンを押し、湯を混ぜながら思う。
 こんな風に屈託なく、ついさっき知り合ったばかりの男を家の中に招き入れる気持ちが、分からない。娘の彼氏を名乗ってはいても、まだ家族になる約束など一切していないという段階だ。ふとしたことから別れるかもしれない。下手をすれば、大切な娘を弄ぶだけ弄んで、逃げてしまう可能性だってあるではないか。
 そして実際のところ、そもそも、二人は付き合ってすらいないのだ。
「……見る目なさすぎるだろ。親も親だが……芹沢もなぁ」
 揺れる水面を見ながら、溜息を吐いた。
「なんで……俺なんだよ」
 パオフゥは自分のことを、能力ある男だと自覚している。才気に溢れ、美学を理解し、道理をわきまえている。単純なスペックだけを比較すれば、そんじょそこらの若造になど負けるはずもない。だがしかし、そんな彼には唯一、決定的に欠けているものがある。
 社会性だ。
 誇りある仕事も、愛する者も、輝ける未来も……何もかもを奪い去っていったあの出来事以来、深い闇の中で一人生きてきた彼は、再び誰かと共同生活を営むなど考えたこともなかった。今さら、戸籍復活の申し立てをするつもりもないし、嵯峨薫としての人生を終える前の知り合いとも、もう会うことはないだろう。成り行きでうららと仕事をするようになり、時には気心の知れた仲間たちと酌み交わすこともあるが……ふとした瞬間に、所詮、自分は天涯孤独なのだと強く感じる。
 こんな男が、生涯の伴侶を得ようなどとはおこがましい。相手を幸せにできるとも思えない。
 パオフゥは思考を断ち切るように勢いよく立ち上がったが、微かにふらついて壁に手をついた。少し長湯が過ぎたようだ。

 脱衣所に置かれた男物のパジャマは、長身の彼には少し丈が短かったが、柔らかく着心地が良かった。
 廊下からガラス戸を少しだけ開けて、台所で食事の後片付けをしているうららに声をかける。
「あ、出たんだ。どう? いいお湯だった?」
 腕まくりをした彼女が、泡のついたスポンジを手に振り返るその姿を見て、パオフゥは一瞬どきりとした。洗い物をシンクの端に寄せ、泡を洗い流して軽く拭いた手を腰のうしろに回し、エプロンの紐を解く。それは何ということもない、ごく自然な仕草だったのだが、なぜだか気まずくて、思わず目を逸らしてしまった。
「……おう」
「じゃ、とりあえず私も入って来よっと。父さんはいつも最後なんだ。パオ、そこのおミカン持ってって、一緒にテレビでも見ててよ」
 うららは髪を解きながら自室に戻って行った。
 仕方なく、ミカンの乗ったカゴを抱えて居間へ行くと、こたつに入ったうららの父が、ニコニコと笑いながら迎えた。
「お、いいお湯だったかな?」
 その質問はさっきも受けた。
 ありがとうございます、服お借りしてます、などと返事をしながら、こたつを挟んだ斜め前にパオフゥは座った。
「その髪、乾かすの大変そうだよね。いつから伸ばしてるの?」
「……そろそろ、六、七年ってところです」
「へえ。すごいね。なんかこだわりがあるのかな」
「まあ、そんな感じです」外見を変える目的で伸ばし始めたのは、"あの時"からだ。あまり歓迎したい話題ではない。パオフゥは話題の転換を試みた。「うららさんこそ、髪型には結構こだわりがありそうですが……」
「そうだねえ。なんだか、アイデンティティがどうとか言って、あんな恰好するようになったけど、元は地味な子だったんだよ。そうだ、昔の写真見るかい?確かあっちの部屋にアルバムが……」
 立ち上がろうとする父を、パオフゥは慌てて止めた。
「……いや、今日のところは。また今度、ゆっくりと見させて下さい」
 興味がなくもないが、勝手に見たことが知れたら、どんな目に遭わされるか分かったものではない。
「そう? じゃあさ、違う話しようか」うららの父は座り直して、ミカンに手を伸ばしながら、声を潜めた。「うららがいない間にしかできない話とか、したいねぇ」
 パオフゥは身を固くした。
「……と、仰いますと……?」
「例えばさ、パオフゥ君は、うちの子のどういうとこを気に入ってくれたのかな? 思ってること、正直に言ってくれていいよ」
「それは……」来るかもしれない、と思っていた質問だった。「明るくて、まっすぐで、困っている他人を放っておけないようなところ、でしょうか」
 我が子を褒められて、悪い気のする親はいない。ウンウン、と頷きながら嬉しそうにしている。
 用意していた回答はここまでだ。だが、パオフゥは少し考え、言葉を選びながら続けた。
「いつも一生懸命で、……口より先に手が出るかと思えば、臆病で弱気なところがある。お節介で、やかましくて、そのくせ、干渉しすぎて人の傷口に触れてしまわないように、遠慮している。俺のことを大切に思ってくれている。だから、俺は彼女を……」
 パオフゥはその先を口にすることを躊躇い、黙った。言えば、何かが変わってしまう気がする。
 うららの父が、穏やかな目でじっと見ている。
 観念したように小さく息を吐いて、パオフゥは静かに語った。
「彼女を大切に思っています。けれど、俺には、彼女と共に生きる資格はない。……俺の本当の名は、嵯峨薫と言います。わけあって、書類上は死亡扱いになっている、この世に存在しないはずの男なんです。生きて日本に帰るために、普通に暮らしている人には想像もつかないような、汚いことに手を染めた。俺の信じる正義にもとる行いは、していないつもりだが、人でなしと呼ばれて仕方ないようなことも、多少はしました。あなた方が大切に育てた娘さんには、きっと……相応しくない」
 サングラスの下の目を伏せ、パオフゥは今度こそ口をつぐんだ。
 うららの願いに応えて最後まで演じ切れなかったことを、すまねぇな、と心の中で詫びる。だが、どうしようもないのだ。自分は元々、役者の器ではないのだから。

「……薫くんっていうのかぁ。なんか、いいね。そっちのが似合ってるよ、うん」

 パオフゥは顔を上げた。うららの父は、変わらず微笑みを浮かべていた。
「ねぇ、生まれてくるのに誰の赦しも要らないのと同じでさ、人を想うことにだって、資格なんて必要ないよ、薫くん」
「…………」
「まして、訳アリだって分かった上で、それでもうららが君を選んだのなら、何も問題ないじゃない。……大事なのはね、君たちが想い合う気持ち、お互いを幸せにしたいと願う気持ちだよ。それがある限り、俺は応援するからさ」
 パオフゥの肩をポンポンと叩いて、満面の笑みを浮かべる。
「実は、うちのカミさんと俺もねぇ、大恋愛のすえの駆け落ちで結ばれたんだよ。ナハハ。その話をする度に、うららが『私も大人になったらドラマティックな恋愛するもん!』なんて言っちゃってさぁ。おませさんだったねぇ。それでさ……」
 とりとめのない思い出話を聞きながら、パオフゥは、温かなもので心が満たされるのを感じていた。胸の奥でモヤモヤとくすぶって、今まで向き合えずにいた自分の気持ち。戸惑いながらも、ようやく形にすることができたと思ったら、ほんの一瞬で、あっさり打ち砕かれてしまった。それはもう、見事に。
 遠ざけようとして邪険にあしらってみせたのに、それでも、パオフゥの傍にいることを決めたうらら。そして、過去に何があったのか問い質すこともせず、笑って受け入れてくれた彼女の父。そのマイペースであっけらかんとしたところが、間違いなく血筋だなと思わせる。
 パオフゥは、知らず知らずのうちに笑っていた。
 うららの父は嬉しそうにまばたきを繰り返し、身を乗り出した。
「あ、面白かった? じゃあ、あの話もしちゃおう。あれは小学生の時、たしか五年生ぐらいだったかな。クリスマスの日にねぇ……」
 やがて、ふすまが開いて、パジャマを着た風呂上がりのうららが部屋に入ってきた。顔をしかめながら、「ちょっと、父さん、パオにどんな話吹き込んでんの? やめてよね、もう」とブツブツ言っている。
 パオフゥは、こたつの向かい側に座ってテレビのリモコンをいじっているうららの、ミネラルウォーターを飲む横顔をちらりと盗み見た。湯船でしっかり温まったらしく、薄化粧の頬が柔らかそうな薄紅に色づいている。長い髪を括りもせず背中に垂らしているせいで、いつもと違ったイメージに見えた。
 無意識にかかっていた「引け目」や「諦観」という名のバイアスを取り除いてみると、素直に、彼女のことを欲しい、触れたいと思う気持ちが湧き起こってくる。まるで、固く閉ざされたまま水底に沈んだガラス瓶が年月を経て砕け、中の空気が泡となって溢れ出すように。
 彼はようやく気付いた。

 これは……この気持ちはたしかに、愛と呼ばれるものだ。それ以外に何があるだろうか?

「今日は来てくれてありがとう、薫くん。おかげで母さん喜んでたよ。疲れたでしょう、早めにゆっくり休むといいよ」
「……ありがとうございます」
「じゃ、おやすみ」
 父は手を軽く上げると、一階にある夫婦の寝室へ入っていった。
 それを見送ってから、うららはパオフゥを怪訝そうに見上げた。
「ねぇ……なんで本名まで明かしちゃったのさ? わざわざ、言う必要ないじゃん?」
「まあ、色々あってな」
「だからその色々ってなんなのよ……」うららは、さっぱりわけが分からない、というように肩をすくめた。「まあアンタがいいなら、別にいいけどね」
 二人は、二階のうららの部屋へ上がっていった。襖を開けると、勉強机やクローゼットなどが並んだ六畳間に、布団が二組ぎゅうぎゅうに敷かれている。
 うららを見ると、視線を泳がせて唇を尖らせる。
「な、なによぅ。ほら、なんたって今は、アンタと私はラブラブカップルって設定だし。万が一にも、父さんに怪しまれないようにしないと……ありゃ?」
 文句を言われるだろうと予想していたうららは、しかし、パオフゥが何も言わずさっさと布団に入るのを見て、肩透かしを食って目をぱちくりさせた。「随分と素直じゃん。調子狂うわね」
 サングラスを外して枕元に置いているパオフゥの様子に、うららは首をかしげながらも、電気を消して隣の布団にもぐりこんだ。ひんやりした感触に身震いして、両足を擦り合わせる。
「それにしても疲れたわねぇ。信じてくれたのはいいけど、まさか、泊まってけなんて言い出すと思わなかったわ。ゴメン、パオ。……でもさ。滅多に経験できるイベントじゃないし、後学のためには良かったんじゃない?」
 無意識に口をついて出た言葉に、うららは急に真顔になり、自分で動揺した。何の後学なのだ。"本番"で知らない女の実家に挨拶に行くパオフゥなど、想像したくもない。
「……滅多にあってたまるかよ。こんなイベント」
 静かな声が返ってきた。
「そ、そうだよね」うららは妙にホッとして、知らずこわばっていた肩の力を抜いた。「でも、意外と、そつなくこなしてたわよ。父さんも母さんも、パオのこと気に入ったみたい。……まあ、嫌われた方が、後腐れはないのかもしんないけど」
「そういやそうだな。頃合いを見て、ちょいと喧嘩でも吹っかけてやりゃあ良かったか?」
「アハハ、勘弁してやってよ。父さん、意外と繊細なんだから。ショックで落ち込んじゃうって」
「……いい人達だな」
 深い呼吸の後、寝返りを打つ音がした。
 うららは微笑んで目を閉じた。パオフゥもまた、父母を気に入ってくれた、そのことが嬉しかった。
 かりそめの関係とはいえ、今日、こうして紹介することができて良かったと思う。彼の方は演技であっても、自分にとってはそうではない。嘘偽りなく、心を寄せている相手なのだから。
 しばらく物思いにふけっていたうららは、ふと、違和感を覚えた。瞼を持ち上げて視線を動かすと、なんと、暗闇の向こうからパオフゥがじっと見つめているではないか。
 ドキン!と鼓動が大きく跳ねた。
 てっきり、寝返りを打って背中を見せていると思っていたのだが、こちらを向いていたとは。
「ど、どしたの……?」うららがドギマギしていると、彼はぽつりぽつりと呟くように言った。
「……こういう風な関わり合いってのも、案外……悪くねぇもんだな。昔は俺にも両親が揃ってる時代があったが、今はもういねぇし、親戚との縁も切れちまった。本当に久しぶりなんだ、身内みてぇに扱われたのは……」
 うららは彼の語りにじっと聞き入った。何とも、おもはゆそうな口ぶりだった。
「俺は、この身一つだけで、他にゃあなんも持っちゃいねぇ。こんな男と一緒になりたいなんて物好きは、さぞかし苦労するだろうぜ。そう思わねぇか?」
 うららは反応に困り、「そう……かな」囁くように返した。
「あぁ。それに、過去のことも……これから親しくなる相手がいたって、俺はいちいち、話すつもりはねぇ。詮索されるのも好きじゃねぇ」
「……アンタって、面倒くさい男よね。そんなんじゃ……女なんて寄り付かないわよ」
 茶化してはみるものの、うららは内心では嬉しかった。彼という人間に、誰よりも近い存在でありたい。
 パオフゥは枕に片肘をついて頭を支え、逆の手で顎髭を撫でながら言った。
「そうかもな。だが、お前さんなら、問題ねぇわけだ。俺のことをよく知ってて、その上で俺に惚れてるわけだしなぁ」
 突然、爆弾発言が投下され、うららは瞬間湯沸かし器のようになった。ガバッと布団を跳ね上げて飛び起きる。
「惚れ……ば、ばっかじゃないの!? 私がいつ、そんな、あ、あ、アンタなんかに」
 事実ではあっても、面と向かって指摘されると否定したくなるのは、人の性というものであろう。
「なんだ? 今さら隠すようなことでもねぇだろう。それとも、俺の勘違いだったか?」
 笑いを含んだ声でからかわれて、うららは俯いた。違う、とも、そうだ、とも言えずに黙っていた。
 今までは、パオフゥがそのセンシティブな話題に触れて来ることはなかったのだ。お互いに、絶妙なバランスで、均衡を保ちながらやってきたはずだった。突然、こんな風に真正面から斬り込まれては、どう返せばいいか分からない。
 返答に窮している彼女の様子をしばし眺めて、パオフゥは不満げに溜め息をついた。
「まったく、いざって時になると尻込みしやがる。せっかくこの俺が、アドリブ効かせてやってるってのによ」それから彼は、皮肉っぽく口角を持ち上げてみせた。「茶番はもう腹いっぱいだぜ。お前さんも、こんな『恋人ゴッコ』じゃ満足できねぇだろ? 言ってみろよ。俺を好きだってな」
 そこまで言われて、うららはようやく気付いた。パオフゥは、今こそ、彼女の気持ちをきちんと受け止めるつもりでいるのだ。一見ニヤニヤ笑いのように取れる表情に隠された、その優しい瞳が物語っている。
 驚きのあまり、思わず声が震えた。
「パオ……なんで、急に? だって……だって、今までは迷惑そうだったじゃん。そういうの」
「……だから、色々あったんだよ。お前とのことを、ちゃんと考えてみてもいいかもしれねぇと思える出来事がな」
 照れたような顔のパオフゥが珍しくて、愛しい。感極まったうららは、夢中で彼の布団の上へ身を投げ出し、抱きついた。勢いよく伸し掛かられたパオフゥは面食らって「どわぁ! て、テメェ、いきなり何しやがる!?」と小さく叫んだ。
「馬鹿。好きって女から言わせるなんて、ちょっとヒドくない? こういうのって普通、男が言ってくれるもんじゃないの? ホント、面倒くさくて、プライド高くて、強情っぱりで……アンタなんか嫌いよ。大っ嫌い」
 笑いながら、彼の胸元に顔を埋めて頬をすり寄せる。その肩を、満足げな表情のパオフゥが、両手で優しく抱いた。
「……やれやれ、天の邪鬼なお姫様だねぇ」

 このようにして、些細な嘘から始まった二人の物語は、めでたくハッピーエンドを迎えたのであった。

 ……のだが。
 幕が降りた舞台の裏から、囁き合う新米カップルの声が聞こえてきた。

「ねぇ。次にまた来る時は、多分、アレのためだよね」
「……アレって何だ?」
「そりゃ、決まってんじゃん。ほら。『お嬢さんを俺にください』ってセリフを言いに」
「あぁ? 冗談だろ。俺のキャラじゃねぇよ」
「大丈夫大丈夫。練習すりゃ、恥ずかしくなくなるから。ちょっと言ってみて」
「嫌だね」
「いいじゃん、誰も聞いてないんだし、減るもんじゃなし。言ってよぅ。言え、この〜!」
「イテ! お、おいやめろって! ……あのなぁ。俺たちはたった今、始まったばっかなんだ。最終的にそういうシナリオになるかどうかはお前の腕次第、だろ?」
「ケチ。……じゃあ、とりあえずさ。パオをその気にさせるために、お試しでちょっとだけ、味見してもらおっかな〜?」
「どこ触ってんだよ!」
「へへ。……パオも……触っていいよ」
「……………………」

 この後パオフゥが『味見』をしたのかどうか?
 それは、二人だけの秘密……である。