平松という名の先輩検事がいた。
気さくで屈託なく、誰に対しても裏表のない接し方をするが、相応にデリカシーのない男だった。
いわく、刑事部の誰某は代行検視しかやったことがないビビリであり、会計課の誰某は別れた嫁さんに月十数万も養育費を払っており、検事正は年甲斐もなく美人のホステスにご執心である、など。
かくのごとき愚にもつかぬゴシップは、嵯峨青年にとって食指の動くものではなかった。供述調書に目を通しながら空返事で聞き流す彼を、平松はデスク越しに小突いた。
「コラ、お前よう、生意気じゃねえか。先輩が親切に情報共有してやってるってのによ」
「今んとこ、間に合ってるんで」
「気取っちゃって、気に食わねえなぁ。んじゃあさ、とっておきの特ダネ聞かせてやるよ。美、樹、ちゃん、のスリーサイズと好きなタイプについて」
チラリと視線をやると、両手を丸めて口にあてたニヤニヤ顔が待ち受けている。見なかったことにした。
「おいおい、無視かよ。お前だって気付いてんだろ。どう考えてもあの子、お前に気があるべ?」
当然、知っていた。しかし、努めて考えないようにしていた。
「美人で頭の回転が早くて謙虚でさぁ、スーツの下はナイスバディ。文句のつけようがねぇいい女だぞ。四六時中一緒に仕事してるくせに、気にならねーなんて嘘だろ、男として。さっさと口説いて、ものにしちまやいいのに」
「……そういう目で見てないっすよ」
「カーッ、罪な男だねぇ! お前はあれか、修行僧か。そうですね、なんつって」
くだらないボケとツッコミを一人で披露している平松。
「まあ、な、ちょうど男として脂の乗ってる時期だ。今は仕事に打ち込みたいって気持ちも俺はわかるぜ。だがなぁ、女心と秋の空、相手がいつまでも待ってくれるたぁ限らねえんだ。でかい獲物を逃してから悔しがったって、後の祭りだぞ。体面を気にしてるってんなら、ほれ、公判の中沢さん。あの人の嫁さんも折尾地検で事務官やってんだよ。広沢元次席検事の嫁さんもだし。俺ぁ応援するぜ、美樹ちゃんとの仲をよ。お前みたいな男には、ああいうタイプが合ってると思うぜ。優しくて、包容力があって、芯が強くて、そんで」
チッ、と大きく舌打ちをする。
「……ああ、うるせえ」
のっそりと起き上がったパオフゥは目をしょぼつかせながら長い髪をバサバサとかき回し、記憶の中のよくしゃべる男を追い払った。きっと、美樹の夢を見たせいだ。余計なことまで思い出してしまった。
「ふあ……あ……ハァックショイッ!!」くしゃみがひとつ、狭い事務所に響き渡った。
冷えるはずだ、引っかぶって寝たはずのブランケットが、床にずり落ちてしまっている。ため息ついでに大あくびをもう一つ。伸びをすると、ソファがミシミシと音を立てた。
それにしても、どんな夢だったか。久しぶりに美樹に会えたというのに、すでにおぼろげに霞んでいる。悪い夢ではなかったと思うのだが。
髭を整えてシャツに着替えてから、冷蔵庫から出した食パンを齧り、新聞にざっと目を通し、PCを起動してクライアントからのメールを見る。
「ん?」
『ご連絡遅くなってすみません。日程ですが、その中でしたら明日六日の正午からでお願いします』
「今日じゃねえか……やれやれ」
建付けの悪い裏口の戸を、ガチャ、バターンと開閉する音が聞こえたのは、その時だった。
騒音の主は、合鍵を持たせている唯一の人物である芹沢うららをおいて、他にない。パタパタとスリッパの音をさせながら、彼女はひょっこりと現れた。
「おはよ。今日も泊まりだったんだ。遅かったの?」
「不本意ながらな」
パオフゥは苦々しく応えた。成果があればまだ良い。だが今回は、噂の情報が正確ではなかった。散々走り回って聞き込みをしたにもかかわらず、ターゲットのヤサを特定するに至らなかった。収穫なき帰還であった。
「振り出しに戻る、だ。無駄骨折っちまったぜ」
「あんま無茶しないでよ。過労死して、折る骨も無くなっちゃったら意味ないんだかんね」
本気で心配そうなうららの顔に、わかった、わかったと生返事をした。
「あ、そうだ」
うららは両手をポンと打って、いそいそとノートパソコンに向かった。
「ターゲットのホームページに書き込んだやつ、あれどうなったかな。返信来てるかな。見てみよ」
「それはいいが、例の西前内のクライアント、今日打ち合わせだ。十二時に来いとさ。のんびりしてると間に合わねえぞ」
「えぇ〜っ、そんな急に」
「掲示板確認したらすぐ支度しろよ」
椅子の背にもたれて、芝居がかった仕草でガクリとうなだれるうらら。
「今日中に、残りの情報の裏取りもやっちゃおうと思ってたのに。当日になってイキナリ言われても困るんだけどぉ」
「メールは一応ゆうべ来てたようだがな」
「そういうことじゃないんですけど?」
んもぉ〜、たんまりやることあるのにぃ、とぼやきながらPCに齧りついて、せかせかとマウスを操作しているうららの後頭部を眺めた。短い跳ね毛が、ゆらゆらと揺れている。
ふと、何の脈絡もなく、パオフゥの脳裏をよぎるものがある。
「……軟膏だ」
その小さな呟きを聞き洩らさなかったうららが、屈託なく振り返った。
「ん? 何? なんか言った、パオ?」
「いや、……なんでもねえ」
歯切れ悪く、パオフゥは答え、目を逸らした。夢の中の美樹は、彼の手を取って、軟膏を丁寧に塗ってくれていた気がする。怪我なんてしてねえよ、と言ったのだが、いいんです、私がこうしたいだけだから、と取り合わなかった。温かい時間だった。
あらかじめ夢だと分かっていれば、素直にその手を握り返すことができたのだろうか。
ありがとう、もう大丈夫だ。まだ少し痛いが、なんとかやっていけそうだ。微笑んで、そう伝えられただろうか。
ふと思い立って彼は、うららを待つ間、スーツケースの鍵を開けた。そして、二重底の奥にしまい込んだ茶封筒から、数枚の紙束と写真を取り出した。
一年以上も前に、ある男から手に入れたものだ。
(報告書だ、受け取れ。……お前、元検察官か。噂屋なんてやってるのは、その墓の下にいる女の復讐のためか?)
(……それを知ってどうする?)
(どうもしないさ……フッ、そう殺気立つな。この仕事は俺が全て手がけた。所員には一切関わらせていないし、この先、俺が口外することもない。まあ、せいぜいうまくやるんだな)
信頼のできる男だと思ったから依頼したのだが、必要以上に詮索されて、いささか肝を冷やした。今となっては笑い話だ。
「ちょっとパオ? 人を急かしといて、自分はぼさっとしてんじゃないわよ。余裕なくなっちゃうよ!」
いつの間にかうららはすっかり準備を終え、資料を入れたトートバッグを肩にかけて、戸口のところに立っている。
「ああ……今行く」
パオフゥは三つ折りの書類をさらに半分にして胸の内ポケットにしまうと、急いで支度をして、事務所を後にした。
車を走らせながら、過ぎ去った日々に思いを馳せた。
いくつもの事件に携わったが、いつでも助手席には優秀な検察事務官が座っていた。凛とした横顔で。たしかに、文句のつけようのない、いい女だった。デリカシーを持ち合わせていない先輩検事の平松はよく、コンコンと車のウィンドウを叩いて開けさせては、二人を囃し立てた。
「よっ、これからデートかい。ヒューヒュー、熱いねえ」
「何言ってんですか。捜査ですよ、捜査。例の、S大学の裏口入学の件です」
「S大ねえ。あ、確かあそこ、校門出たところに絶品のたい焼き専門店あんのよ。帰りに二人で寄ってさ、違う味のを頼んで、半分こしてイチャイチャ食べなさいよ。そんで俺にも買ってきて。カスタードでよろしく」
「フフ、分かりました。領収書は全て平松さんのお名前で切っていただいていいですか?」
「タハーッ。さすが言うねえ美樹ちゃん! こりゃ尻に敷かれるぞ、嵯峨は」
「おい美樹……この人の冗談に構うなって。どんどん増長すんだから」
思わず嫌な顔をしてたしなめると、美樹はクスクスと笑った。茶化されても恥じらうことなく、しなやかに受け流すその様が、しかし、誇らしくもあった。俺の隣を任せられるのはこの女しかいないのは確かだ、と思っていた。
それが、どうだろう。
「……う〜〜〜〜〜〜ん」
今、助手席で書類をめくって難しい顔をしているのは、能天気な割に喧嘩っ早くて騒がしい、派手な髪の女だ。
「このクライアント、別れた元嫁との間の子供二人を引き取って育てつつ、姉と甥っ子姪っ子、それに両親と叔母も一緒に暮らしてて。そんで、十数年前に自分の子供を産んだ元カノを探してるんだよねぇ」
「自分の子供を産んだ“かもしれない”元カノだろ?」
「そう、それ。産んだかどうかすらも不確かな関係なのに、ヨリを戻したいのかなぁ。依頼料も分割したいってぐらいだし、暮らすのにいっぱいいっぱいで、もう一人二人養うのは厳しそうなのにねぇ。なんで?」
「俺が知るかよ。一目会いたくなったとか……色々あるだろ。だいたい、今からそれを聞きに行くんじゃねえか」
「ま、そうだけどね。なんか、気になるなぁ」
すぐにクライアントに感情移入して、首を突っ込みたがるのがうららの悪いくせだ。行方知れずの人の消息を掴むのが仕事であって、彼らに干渉するのは自分達の役目ではないというのに。
しかし、彼女のその人間臭いお節介さと、嘘偽りのない共感と、ケ・セラ・セラを体現したような性格は、意外にもクライアントの心を和ませ、わずかなりとも軽くする力があるように思う。いや、クライアントだけではない。パオフゥ自身も、それに多少救われているという自覚があった。
パオフゥは迷ったが、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……お前が嫌でなけりゃだが。先にちっと寄りたいところがあるんだ」
考え込んで髪を弄んでいたうららは、首をかしげて隣を見た。
「どしたの? ガソリンでも入れ忘れた?」
「いや」
小さな欠片ほどのためらいが胸につかえて、パオフゥは言い淀んだ。
「墓参りだよ。長いこと……先延ばしにしてたんだが、近くを通るんでな」
こんな機会でもなければ、こちら方面にわざわざ足を運ぶこともないので、ちょうど良いタイミングだと思ったのだ。墓前に立って、きちんと向かい合って、伝えたかった。
誰の、とは言わない。だが、うららは察したようだ。「……そっか」ぽつりと呟いたきり、黙り込んだ。
「…………」
沈黙が痛い。
やはり、一人の時に行くべきだったか?
美樹はうららにとって知り合いでもなんでもない。そして、互いに面識がないとはいえ微妙な関係性の相手だ。
迷惑だっただろうか。断りにくい空気にしてしまったのではないか。
パオフゥにしては珍しく、気弱な思考がぐるぐると胸中に渦巻いていた。ところが、ふと気づくと、視線の端のうららはこちらをジロジロ見ているではないか。
「何だよ?」
「アンタまさか、手ぶらで行くつもりじゃないでしょうね」
言われてはたと気付く。そういえば、何も考えていなかった。
「いや……そういうわけじゃねぇが……」
奥歯に物が挟まったような回答に、うららは怪しむような視線を向けた。それからふっと表情を和らげ、
「ふーん。じゃあもちろん、花屋寄ってくんでしょ? なんかちょっと頼りないからさ、私が見繕ってあげるわよぅ」
まるでなんでもないようなその言葉に、パオフゥは目を見開いた。それから、苦笑した。そうだ、こいつはこういう女だった。
「どーせアンタみたいなやさぐれ男はさ、人に花束なんて送ったことないんでしょ」
「あん? あのなあ、俺ぁこう見えて昔は」
「はいはい、昔話とかいらないから。どーのこーの言っても、パオなんて所詮、女心分かんないトーヘンボクだし、鈍感だし、おまけにセンスだってないんだからさ」
「おい待て、そこまでボロクソに言うか!?」
うららは声をあげて笑った。
柔らかな日差しに満たされた午前十一時。抜けるような青空の下、車は街を軽やかに走り抜けていく、口うるさく小憎らしい相棒を助手席に乗せて。
やがてパオフゥは、花束を墓前に手向けるだろう。哀しみや怒りではなく、穏やかで温かな感情とともに。それは間違いなく一つの物語の終わりであったが、同時に、別の新しい物語の始まりでもあるのだった。