甘酸っぱくて苦くて青い

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「好きだよ」あるいは「愛してるよ」。そこに「世界で一番」の枕詞がトッピングされているならば、なお望ましい。
 陳腐な台詞だが、芹沢うららはかつて、それを手に入れるためだけに生きていた。甘く優しく心をとろかすような、愛の言葉を欲しがった。
 恋人と睦み、親密な触れ合いをする時、それは与えられる。女として愛される充足感に満たされ、心を潤し、ときめきで胸を熱くすることができる。
 彼女はいつだってラブ・ストーリーの主人公でいたかったし、愛されることで、自分という存在を感じていたかった。目一杯磨き上げたお料理の腕前も、心をすり減らして頑張るつまらない仕事も、お花やフラメンコのレッスンも、スキューバやスノボを利用して出会いを探す週末も、付き合った男がピンチの時に貸す金も。何もかも、全ては愛のためであった。
 幸せな結婚を願って、ひたすら恋に生きる女。それが彼女だった。
 しかし、現状はどうだろう。
 彼氏ナシ歴、はや三年半。お見合いパーティーはめっきりご無沙汰。昔なら大喜びで乗っかっていたナンパ男からの誘いも丁重にお断り。
 今や芹沢うららは、親友の天野舞耶に心配されるほど仕事一辺倒の生活を送っている。マンサーチ・コンサルティング・オフィスの所長補佐としてせっせと働き、余暇は経理業務やパソコンの勉強に充て、急な出動要請に備えてこまめに休養を取る。それは、デートやレジャーなどとは無縁の生き方であった。
 人探しの仕事は忙しく、深刻な依頼で精神的に参ることもあり、不規則な生活で肌荒れしやすい。
 それでも、前よりずっと自分らしい人生を生きている。うららには、それが嬉しい。

 うららがまだ大手下着メーカーで営業として働いていた頃、のちの相棒であるところの嵯峨薫……通称パオフゥは、盗聴バスターを廃業するかわりに何でも屋を始めた。
 アリバイ工作や害獣退治といったまともな依頼に混じって、ゲームのレベル上げ代行やプレゼント選びの手伝いといった下らない依頼も多かった、とはパオフゥの談だ。
 そんな中、やはり一番需要が多いのが、人探しだったという。
 大事件の爪痕が深々と刻まれたこの珠阯レには、多くの闇が残った。「新世塾に入る!」と言ったきり、いなくなった者。浮上災害に巻き込まれて行方が知れない者。拉致されて実験施設に押し込まれた者。
 パオフゥは、人探しや家出調査の依頼に特化し、正式に事業化することを考えた。そして、優秀な芹沢うららを右腕としてスカウトしたいと、頭を下げて頼み込んできたのだ……と彼女は友人に得意げに語っているが、事実とは異なる。
 本当のところは、うららが一方的に「たった一人でやるつもりなのか」「人手が要るに決まってるだろう」「一人でできる仕事などたかが知れてる」「調査と事務仕事を両立できるほど几帳面でもないくせに」などとまくし立てて、なかば押し切るような形で転がり込んだというのが正しい。
 それまで、仕事のことで口を挟まれる度に煩わしげな顔をしていたはずのパオフゥが、少し強引に迫ってみせただけでさほどの抵抗もなく「言い出したら聞きゃしねぇ。勝手にしな」とあっさり引く形となったのは拍子抜けであったが。
 何か人の役に立つことがしたいと考え、自分自身を変えたかったうららにとっては、この上ない契機であった。
 なにより、寂しかったのだ。このまま放っておけば、パオフゥはいずれ、手の届かないところに行ってしまいそうな気がした。忙しい忙しいと相手にもされず、そのうち連絡が取れなくなり、縁が切れるのではないかと。

 そして、パオフゥはパオフゥなりに思うところがあったのかもしれない、とうららは思う。
 一人で様々なものを抱えていくのも、限界があるのだろう。
 事業を興し、事務所を構えて間もない頃のことだ。
 パオフゥは、極寒の風が吹きすさぶ中、雪にまみれたびしょ濡れのコートで帰って来たかと思うと、足をもつれさせて玄関に倒れ込んでしまった。そんな彼の様子を初めて見たうららは、それはもう驚いた。応接室まで引きずって行ってソファに寝かせ、熱を測ると四十度もあった。どうも、不摂生と多忙さがたたってタチの悪い風邪をこじらせたようだ。彼女はタオルを冷たい水で何度も絞り、懸命に介抱した。
 ストーブに乗せたやかんがシュンシュン湯気を立て、時間だけが妙にのろのろと過ぎていったのをよく覚えている。
 苦しそうな息の下、熱っぽく乾いた唇で、パオフゥがうわごとのように呟いた電話番号と名前を、うららは急いで書き留めた。
 俺の、かかりつけの医者だ。何かあったらそこに。
 パオフゥの身の上は複雑だ。復讐のために偽名で正体を覆い隠し、法の手の及ばぬ暗いところで生きてきた代償として、人並みの医療サービスを受けることもできないのだ。看板も出せないような怪しい闇医者だけが、彼のセーフティネットだった。その時まで、考えたこともなかった。
 なんだか知らないが泣けてきて、メモの上に雫がぽたりと垂れて文字が滲んだ。それと同時にうららは、心臓の奥からとくん、と柔らかく叩かれる音を聞いた。大切な命綱を、自分に預けてくれたことが嬉しくて。辛そうなその姿が苦しくて、悲しくて、いとおしくて。メモを握りしめた手で震える胸を押さえながら、涙が止まらなかった。
 傍にいてずっと守ってあげたい。心からそう思ったのだ。

 その湧き上がる感情もまた、きっと愛なのだろう、とうららは考える。
 しかし、それにしたって、シチュエーションが酷すぎる。あんな辛気臭い事務所で、殺伐とした状況の中、闇医者の連絡先を教えられてときめいてしまったなど、誰にも言えないではないか!
 あのやさぐれ男と一緒にいると、どうにも調子が狂ってしまう。
 恋愛面では何も期待できない。たとえ拷問されようとも「愛している」なんて甘ったるい言葉を口にできる男ではないことは解っている。だが、うららは、そんなことはもうどうでもよかった。
 出会った頃の斜に構えた感じが和らぎ、彼はずいぶんと気さくに笑うようになった。笑った時の、少し目じりの垂れた優しい眼差しがなんともいえず、いいのだ。それを見ているだけで十分だ。だから、彼がよく笑い、よく食べ、健康で幸せでいてくれること。それを強く願った。

 柄にもなく初心うぶな恋心をうららは胸にしまい込んだまま、そんなこんなであっという間に時間が過ぎ、二人が共に仕事を始めてから二度目の春が来た。

 パオフゥとうららは、よく飲みに行った。お互い酒好きであり、同じ仕事をしていれば、必然的にその機会は多くあるのだった。
 うららは陽気な酒が好きだ。パーッと飲んで騒いで、思いっきり笑う。酔いに身を任せてしまえば、不愉快な記憶はアルコールがあらかた流してくれる。楽しかった思い出は残る。そうすれば、明日はもっと楽しく生きていける。
 パオフゥは、そんな彼女に合いの手を入れて賑やかしはするが、どちらかというと静かに飲む酒が好きである。ちびちび舐めるようにグラスを傾け、透き通った琥珀色の液体をスクリーンにして、遠い昔の記憶を眺めるような。うららと一緒に飲んでいても、パオフゥはよくそんな感じで、何か考え事をして“遠くに行っている”時があった。
 そんな二人であるから、いつも、グイグイ飲んで先にダウンしてしまうのはうららであり、パオフゥはそれを見てやれやれとタオルを投げ込む、といった役割分担に自然となっていた。
 だが、その日は違った。
 珍しく耳まで赤くなったパオフゥは、饒舌に昔語りをした。あんまり珍しいものだから、うららもおしゃべりをやめ、話を聞く方に集中していた。
 寝食も忘れて没頭するほどの本の虫だった嵯峨薫少年が、そのくせ、やんちゃ坊主でガキ大将でもあったこと。仲間内で流行っていたイタズラ、集めていたメダルやシールのこと。誰にも内緒で一人でスタジアムまで野球観戦に行って、パンクした自転車を押しながら歩いて帰ったら、心配して深夜まで玄関で待っていた両親にこっぴどく叱られたこと。
 それから……今まで聞いたことのなかった高校時代、大学時代の話も。
 若き日の彼は、学力も身体能力も、同年代の間では頭一つ分以上抜けていた。自信家で、強気で、曲がったことが嫌いな正義感。当然のように周囲から煙たがられた。同級生たちはもちろん、講師もみんな馬鹿に見えて、大学では自分から距離を置いていた。
 司法試験の予備試験を受ける学生は十人ほどいたが、みな法律を学ぶために予備校にも通っており、独学で勉強している者は他に誰もいなかった。
 俺は自己流でやってもエリート公務員になれますってか。お高くとまっちゃって、やだねぇ。落ちてくんねぇかな、そしたら面白ぇんだけど。あの偉そうなエリート様が挫折した時にどんな顔するのか見てみたいじゃん。
 そんな声を意にも介さず、パオフゥは見事、試験に一発合格した。群れるしか能のない駄犬の唸り声は、ただの雑音でしかないのだと、証明してみせた。飄々として、勝利をその手に掴み取った。
「だが、それだけだ。俺が学生時代に得たものは」
 パオフゥは笑った。ほろ苦い微笑だった。
「クソみてぇな青春だった。成績とルックスに釣られて女はひっきりなしにやって来たが、本気になれるような相手はいなくて、全部遊びで終わった。そうするとますますやっかみが酷くなって、男は寄り付きもしねぇ。友情なんてものにゃ、とんと縁がなかった。欲しくもなかったがな。……手に入ったのは、たった一つの輝かしい栄光だけだ。ま、それももう、俺の手元には残っちゃいねぇんだよなぁ……」
 じっと耳を傾けながら、うららは哀しくてどうしようもなくなってしまった。
 パオフゥが自分のことを「天涯孤独」と自嘲するのは、単純に家族がもうこの世にいないとか、親戚と疎遠であるとか、そういう単純なことだけではなかったのだ。それがやっとわかった。
 彼の根っこの部分には、ぽっかり穴が開いている。
 なぜなら、いつまでも色褪せない懐かしい記憶を共有できる相手が、もう誰もいないから。思い出の品も、何一つ残っていないから。
 私はどうだろう、とうららは思った。
 高校時代は、朝から放課後まで友人と下らないことで騒ぎ、買い食いしながら夜の街を制服のまま遊びまわっていた。誰々先輩に告白するだのしないだの、何々君が気になるだのならないだの、毎日恋愛のことばかり。勉強などそっちのけで、あげくの果てに留年してしまった(そのおかげで、今や大切な親友である舞耶と同じクラスになれたのは幸いであったが)。これはさすがにマズいと猛勉強し、なんとか服飾系の学校に合格。結局は才能の壁に阻まれて挫折してしまったが、当時出会った個性的な友達とは、退学後も交流が続いている。
 大きな夢は叶えることができず、何人もの男に騙され、隣の青い芝を妬んだりもして、どうしようもない半生だったかもしれない。
 それでも、あらゆるものを失ってきたパオフゥと比べれば、彼女は色々なものに恵まれていた。
 だから。
「ねえ。写真、撮ろうよ」
 うららは思わず卓の上でパオフゥの手を握り、提案したのだ。赤い顔のパオフゥは、ひっく、としゃっくりをした。
「あぁ? 写真だぁ?」
「そう、写真。アンタってば、アルバムの一つも持ってないんでしょ。昔のはもう仕方ないけど、せめてさ、これからの楽しかった思い出は残していこうよ。そんで、写真で撮るために、いっぱい楽しいことしようよ。遊びに行ったり、いろいろ食べたり。写真で見返したら何度でも楽しめるよ。そういやこんなことあったなーって」
 居酒屋のテーブルに身を乗り出して熱弁するうららを、パオフゥは面倒くさそうに見ていた。何か言われる前にとうららは急いで立ち上がり、高らかに宣言した。
「よーし、決まり。撮ろ撮ろ。そうだ、今カメラ持ってんでしょ? ちょっとさ、早速それで撮ってみようよ」
「お、おい。俺のスーツケースを勝手に開けるんじゃねぇよ。大事な商売道具なんだぞ」
「いいじゃん、フィルムの一枚や二枚。ケチケチすんじゃないわよぅ。ほらさっさと貸しなさいってば」
「だああ! コラ、阿呆。やめろっての!」

 写真には、やれやれという顔で腕を組んでいる赤ら顔のパオフゥと、その肩にピースした手を乗せカメラ目線でウィンクしてるうららが写っている。
 記念すべき一発目として、なかなか味のあるいい写真が撮れたのではないだろうか。
 だが、後から考えれば、ちょっと強引だった気がしなくもない。はたから見れば、パオフゥとツーショット写真を撮りたいがために、もっともらしい口実で丸めこんだようにも見えてしまうのではないか?
(う。いや、べ、別に全然、そんなつもりじゃないのよぅ)
 うららは頭を振る。
 彼女はただ、パオフゥの手の中からこぼれて消えてしまった輝きを、少しでも取り戻せたらいいなと思っただけだ。今からでも「青春」をやるのは遅くないということを、なんとしても証明してみせたかったのだ。まあ、真実を言えば、ほんの少しだけは「そんなつもり」であったのだが。

 うららはまず、パオフゥをカラオケ屋に連れて行くことにした。何と言っても、カラオケといえば青春の代名詞ではないか!
 だがしかし、その計画の実行には問題があった。パオフゥはカラオケに対して好意的ではなかった。何がダメなのか聞いても「なんとなく肌に合わねぇんだよ」としか言わないのだ。奢るからと言っても、嫌がるのをなだめすかしておだてても、可愛くおねだりしてみても、まったく耳を貸さない。
 最終的には、拳で脅して引きずっていく、という力業を行使することになってしまったのだが……その経緯いきさつについては省略させていただこう。
 うららは始終、ハイテンションであった。前職を辞する時の送別会以来、久々のカラオケに、ワクワクしているようだった。廊下まで響いてくる雑多な歌声、派手な電飾にアングラな雰囲気、安っぽいドリンクバー、サイケデリックな光に彩られた狭く暗い部屋。非日常の空間に二人でいると、距離が近くなったようで気分が高揚する。
 いまだ乗り気でないパオフゥを鼓舞しつつ、どんどん演奏予約を入れていくうらら。今をときめくアイドルグループの曲に、十八番の切ないラブ・ソング。次から次へと歌っていく。こう見えて、なかなかの歌唱力であった。
 意外にもパオフゥは聞き上手で、合間合間に「へぇ、大したもんだ」「お前さんの声によく合ってるな」「こいつぁちょっと前にやってたCMの曲だろ。なんとかいう清涼飲料水の」などのコメントを挟む。
 たこ焼きやフライドチキン、ポテトをつまみに、アルコール飲み放題。いい感じにほろ酔いになった頃合いを見て、うららは、すかさず目次本をパオフゥの目の前に押しやる。
「パオも歌いなよぅ。私一人じゃ喉が潰れちゃうわよ。明日仕事できないかも」
「喉が潰れる前に店を出りゃいい話だろうが」
「やだね!! パオが帰っても歌い続けてやるぅ!! そんで明日、ガビガビの喉で!! 延々と!! 恨み節垂れ流してやるもんね!!」
 マイクで叫びまくると盛大にハウリングし、あまりの音量にパオフゥは耳をふさいだ。
「あぁもう、うるせえ、うるっせえ!! わーかったよ、歌やいいんだろ」
「やったやった、私の勝ちぃ」
 はしゃいでタンバリン片手に囃し立てるうららを無視して、パオフゥが選んだのは、あの有名な英語の曲だった。
 ──想像してみなよ、天国なんて存在しないってことを。やろうと思えば簡単なことさ。
 正直なところ、パオフゥはもっとハードな曲……乾いた砂漠に血の雨が、とか、お前を今夜離さない、といった歌詞のものだ……を歌うのではないかと予想していたので、意表を突かれた。巧いというほどではないが、安心して聞いていられる、落ち着く歌声だ。うららは何故だか照れくさくなってしまい、膝の上のタンバリンをギュッと握って聞き入った。
 パオフゥはうららの脅しに屈し、もとい、熱烈なリクエストに応じて、昔の時代の小洒落たポップスや渋めのフォークソングなどを少し歌った。そこをすかさず、買ったばかりのコンパクトデジタルカメラでうららが横から激写する。
「あのなぁ、芹沢。真剣に歌ってる時は撮るなっての。マナー違反だろそれは。ちょっと寄越せ」
「そんなマナー、聞いたことないわよぅ。誰が決めたのか教えてほしいもんだわ」
「いいから貸せって。お前のカメラで撮った写真だろうと、肖像権は被写体にあるんだからな。俺は確認する権利があるし、場合によっちゃ削除するぞ」
「ちゃんとこっちで厳選するから大丈夫だって。やーだ、ダメダメ」
「おいこら……寄越せよ、とにかく」
「アハハ、キャー誰か助けて、強盗にカメラ盗られちゃう。あ、ほら、間奏終わるよ。マイク持ってマイク」
 と、このような調子で存分に騒ぎ、なんだかんだで盛り上がった二人であった。締めはもちろん、サトミタダシ薬局店のうたである。

 また別の日には、写真ではなくプリクラを撮った。
 パオフゥにとっては未知の世界であったが、ごく一般的な女学生として若い時代を過ごしたうららはもちろん体験済みだ。社会人になってからは、同窓会で古い友人に再会した時と、飲み会で出逢ったチャラ男とデートした時に撮ったぐらいだが。
 ゲームセンターに入った瞬間からずっと、パオフゥは本気で嫌そうな顔をしていた。
 ハッキリ言って、二人、特にパオフゥは浮きまくっていた。なにせ、プリ機に並んでいるのは、いずれも学校帰りのうら若い女子ばかりである。壁際に座り込んだ黒ギャルに遠慮なく眺め回され、面白おかしくひそひそ話をされ、ケラケラと笑われた。
「なんで俺がこんな所に来なきゃならねぇんだ……」
 心底帰りたそうな声色だった。
「なんでってそりゃあ、パオがプリクラやったことないって言うから」
「ないのが自然なんだよ! 世の中にはな、経験する必要のねぇものが山ほどあるんだ。たとえばな、お前さん角刈りしたことあるかよ? 立ちションベンは? やったことある女は滅多にいねぇが、だからといって、一度やってみろとはならんだろ。あとは……そうだ、俺がお前さんに半神Tシャツの着用を強要したらどう思うよ?」
「私、強要なんかするつもりはないわよぅ。でもさ? パオこないだ、真夜中に私のこと現場に呼びつけたじゃん。その時、言ったよね。『わりぃな、この埋め合わせは必ずするからよ』って」
「う……」パオフゥはたじろぐ。「埋め合わせったってなぁ。もっと他にあるだろ。飯や酒を奢るとか」
「そんなの要らないわよ」腕組みをして、フンッと顔を背けるうらら。「これがいいの。今日、パオと撮りたいの」
「はぁぁ。ったく、言い出したら引きゃしねえ」
 頑として譲らぬその態度に、パオフゥは絞り出すようなため息をついて、頭をがしがし掻いた。
「……あーあ、クソ、どうやら空いたらしいぜ」
 順番が回ってきて、パオフゥは舌打ちした。よっしゃ! とばかりにうららがその背中をグイグイ押すと、諦めたように、しぶしぶプリ機に入っていった。

 仕上がったプリントシールは会心の出来であった。パオフゥの頭にはネコの耳、うららの頭にはウサギの耳。周囲にはハートや星のマーク、それに日付などが、可愛らしいストライプ模様の縁取りペンで描かれている。シールを切り分けるうららの楽しそうな表情ときたら、ツヤツヤと光り輝くほどであった。シールが出来上がるまで文句を垂れていたパオフゥも、まあいいか、小銭数枚使った程度でこんなに喜ぶんなら、と苦笑する。
 写真やシールは、パオフゥのために準備された「思い出帳」をどんどん彩っていく。写真以外のもの、たとえばチケットや手紙なども自由にレイアウトできるよう、スクラップブック形式になっていて、なかなかの分厚さだ。
 全てのページが埋まり、正式に彼に手渡す時、どんな思い出でいっぱいになっているのだろう。うららが本を手に取って撫でていると、パオフゥがやってきて呆れたように言った。
「おーおー、締まりのねぇ顔でニヤついてら」
「なによぅ。見てなよ、いつか絶対、私に感謝する時がくるんだから。この頃すげぇ楽しかったな、お前の作ってくれたコレは俺の宝物だ……ってね」
「そんなこと言うキャラじゃねぇよ、俺は」
 笑いながらコーヒーを飲んでいるパオフゥを、またしても手際よくカメラに収める。
「おっ、いい表情、いただきましたぁ〜」
「あーあ、また盗撮されたぜ。俺の平穏なプライベートはもう返ってこねぇのか? パパラッチされるって大変なんだな、有名人に同情するぜ」
 もうすっかり諦めてしまい、憎まれ口を叩きながらも撮られるがままになっているパオフゥであった。

 うららは、さらに積極的にパオフゥを様々なイベントに巻き込んでいった。
 友達に借りてきたゲーム機やソフトを事務所に持ち込んで、徹夜でゲーム大会を開催した。麻雀大会とどちらにするかかなり迷ったのだが、頭数が要る上、絵的に不健全なので没にした。
 膝をついて腕を伸ばし、テレビの裏側にコネクタを刺しながら、
「ゲームなんて、子供の頃以来、ずいぶん久しぶりにやるわ。操作分かるかなぁ……よいしょ」
 と、うらら。パオフゥはゲームの説明書を読みながら
「俺だって久しくやってねぇよ。だが、不思議と、お前さんに負ける気はしねぇな」
 などと余裕綽々で言ってのける。
「そーんなこと言っちゃっていいのかしらねぇ。ブランクの長さは私より上でしょ?」
「フン、甘いな。ゲームってのはいわば、コンピュータの演算に人間の判断力と制御を与えて、特定の条件をクリアするものだ。俺の得意分野だぜ」
「果たしてそう上手く行くかなぁ? ンッフッフ、コテンパンにのしちゃる!」
 勢いよく表明した手前、有言実行したかったうららであるが。
 結果としてはあいにくの惨敗であった。
 レースゲームは毎回コーナリングが甘くて追い付けず、すぐに壁にぶつかって減速する。パズルや野球ゲームは言わずもがな。そこで、格闘ゲームであればその瞬発力を活かして勝てるに違いないと踏んだのだが、そうは問屋が卸さない。綺麗なコンボが出せるようになる頃には、パオフゥにタイミングも間合いも行動パターンも読まれてしまっている。悔しいが、どうやっても相手が一枚上手だ。
「はあ〜!? うっそでしょ、今の絶対私が早かったのにぃ!!」
「ところがどっこい、現実はそうはなってねぇんだよなぁ」
「なんなのよぅ。手加減なさすぎてちょっと引くわ、もっと操作ミスとかしなよ」
「おや、温情やまぐれで勝って喜ぶようなタマじゃねぇと思ったんだが、そうでもねぇのか?」
「うぎぎぃ……見てなよ、次は絶対に負かしてやるかんね」
 大量に買って来ておいたスナック菓子やジュースは、いつの間にかほとんど消えてしまっていた。缶ビールを開けてからはさらにヒートアップし、明け方まで大騒ぎ。オフィスビルであったことが幸いした。もしこれが住居ビルならば、周囲の住民は大層迷惑を被ったことであろう。
 ついに耐えられなくなってうららが寝落ちしたあとも、パオフゥは虚ろな目でクリアするまでポチポチとゲームをやっていた。こちらはこちらで、やはり負けず嫌いであった。

2

 季節は初夏。
 青葉公園の野外音楽堂にまあまあ有名なバンド・グループが訪れ、二人は連れ立ってそのライブを聞きに行った。また、同じ日に「エジプト文明展」も開催しており、ついでとばかりに足を運んだ。
 土産のキーホルダーやポストカード、ぬいぐるみにしおりにシール。両手に袋をぶら下げたうららは、パオフゥから
「浮かれすぎだろ。そんなに買って誰に配るんだ? つうか、そんなもん、貰って喜ぶ奴いるのか?」
 という辛辣なツッコミを食らった。
 自分でも浮かれているという実感があったうららは、唇を尖らせた。仕方がないではないか。好いた男と寄り添ってまるでデートのような時間を過ごして、心が弾まぬ女などいるまい。
「……うるさいなぁ、これは全部自分用だもん。私が使うために買うのであって、配るものじゃないのよ。ほら見て、このキーホルダー、反射する素材でできてるんだよ。外出用のカバンに付けようかと思ってさ。で、こっちのホログラムシールはパオの思い出帳に貼るの。どう?」
「あぁ? どうせ貼るならこっちのシンプルなロゴのやつにしろよ、こんなキャラクターの描いてあるやつなんてダサくってしょうがねぇぜ」
 ついに、プレゼントされる本人が、編集内容に注文をつけ始めた。「まったく、うるさいやっちゃ」と口では言いながらも、嬉しそうな顔を誤魔化しきれないうららだった。
 パスタ屋で早めの夕食を取って店を出ると、青とオレンジに夕暮れた空が美しい。
 信号待ちで立ち止まり、その鮮やかな色の天幕を見上げるパオフゥの背中に向けて、シャッターを切る音がした。
 振り返ると、うららは眩しそうに笑っている。
「ねぇ。せっかく来たんだし、ちょっと休憩していこ」
 公園を指さし、返事も聞かずにさっさと走って行ってしまう。しかたなくパオフゥも公園内に足を向けると、ライブを観に訪れた客の姿は既にほとんどなくなっており、辺りは静かだ。時折、ランニングウェアの男女が通り過ぎる。うららを見ると、ブランコに腰かけ、煙草に火を点けているところだった。
 軽く前後にゆらゆらと揺れながら、隣、座んないの? と目線で尋ねてくる。
 ちょうど食後の一服をしたいところだったので、パオフゥは素直に誘いに応じた。
 キィ、と軋む鎖の音が、幼い日々のノスタルジーを彼の胸に溢れさせる。あの頃、誰よりも高いところまでブランコを漕ぐことができた。いつか空を越えてどこにでも行けるし、何にだってなれると信じていた。世界は、輝きに満ちていた。
 物思いに耽りながら煙をくゆらせるパオフゥを、うららはまた、静かにカメラに収めた。暮れる空、虫の鳴き声。風のにおい。同じ過去を過ごしたわけではないが、なんとなく、彼の懐かしんでいる光景が、自分の目の前にも広がるような気がした。

 うららは、本の端を指でなぞる。
 写真、シール、記念切手にチケット。思い出が増え、空白のページが少しずつ減っていくごとに、ある一つの気持ちがどんどん強くなっていく。
(もっと……)
 もっと、多くのものをここに収めたい。簡単に手が届く「いま」だけでなく、降り積もる砂の奥深くに埋もれてしまった彼の遠い記憶も、できる限り丁寧に拾い集めて、目一杯に詰め込んで贈りたい。こんなにピュアな欲望を抱いたのは初めてで、うららは戸惑ってしまう。
 駄目で元々。やるだけやってみよう。
 そんな気持ちで、利用したこともないインターネットオークションサイトにアクセスした。
 目が回るほど大量の写真がひしめき合うページを真剣な顔で睨んで、いくつものキーワード検索を試して、画像から発売年を調べて、落胆しては次へ。毎日毎日、何週間も時間をかけて、コツコツと探し続けた。
 そうしてようやく手に入れたものを、うららは小さな二つ折りの可愛らしい便箋に挟んで、トレーシングペーパーの封筒に綴じ込んだ。
 彼は気に入ってくれるだろうか。
 緊張の面持ちでうららが封筒を差し出したのは、六月も半ばに差し掛かろうかという、その日だった。
「なんだよ」こういうことには無頓着なところのあるパオフゥは、いまいちピンと来ていない顔のまま、金色の花の形のシールに指をかける。
 中の便箋にはもちろん、彼の誕生日を祝う言葉が書かれている。
 去年は焼肉を食べに行っただけで何も渡さず終わってしまったので、今年はちゃんとプレゼントを用意してみたこと。たとえ気に入らなかったとしても返品不可(そもそもスクラップブックに収納して改めて渡す予定)であること。そして、これからもよろしく……といったメッセージが添えられていた。
 便箋に軽くテープで止めてあるのは、透明の薄い袋に封入された一枚のカード、さらに一枚のシール、であった。
 成人男性へのプレゼントとしては、かなり王道を外れているラインナップだ。
 不安そうに見上げるうららをよそに、パオフゥの目は、その小さな贈り物に釘付けになっている。
「こ、このカードは……ビッグ・ナイツ第四弾のヘル・ブラックメシアのホログラムじゃねぇか!?」興奮気味で食いつき、サングラスをずらして顔を近づける。「こいつぁ復刻版じゃねえ、間違いなく当時モンだ。それに……こっちの野球シール、半神の山西のサイン入りキラバージョンかよ。おいおい、これラッキーシールで貰えるレアなやつだろ。ダチがこれの峰岸のシールを親戚から貰ったって自慢しててよ、羨ましくてたまらなかったぜ。ノーマルは全種類集めたんだが、結局当たらなくてなぁ。いや、すげぇな。芹沢、お前これ……」
 我に返ったようにうららを見つめるパオフゥ。
 彼の反応に手ごたえを感じ、高揚した気持ちでうららは胸を張った。
「へへ、頑張ったんだぁ。ずっとオークションで探してたけど、状態のいいやつが出てこなくてさ。その手のファンのコミュニティで情報収集してたら、運よく穴場のコレクターショップ教えてもらえて。直接行って譲ってもらったのよ」
 これだけの美品ならばきっと、普通のプレゼントを買うよりずっと値が張ったはずだ。だが、パオフゥは「高かったろうに」という言葉を飲み込んだ。感謝すべきはそこではないからだ。
「……俺のために、興味もねぇシールやカードのこと調べて、手間がかかったろうに。大変じゃなかったのか」
「そりゃあね、大変でしたとも」
 得意げな顔で腕組みをしてみせる。
「でも、パオが喜んでくれたならそれでチャラだよ。むしろ、お釣りが来るぐらい。いつもお世話になってるんだもん、このぐらいやんないとね。……誕生日おめでと、パオ」
 パオフゥはフッと笑った。
「ありがとうよ。……将来値上がりした時に惜しくなって、返せなんて言うなよ? こいつぁ俺が貰ったもんだ。いくら高騰しようと、もう手放す気はねぇぞ」
「む」うららは眉を顰める。「その発想はなかったけどさぁ。……なんかそう言われるとすっごい損した気分になるんですけど? ちょっと、どっちか一枚返しなさいよ!」
「ヘヘっ、やだね」手を伸ばしてくるうららを避けて、ヒョイ、と頭上高くに持ち上げてみせる。
「まったくもう。子供なんだから」
 うららも笑った。

 彼が幼い頃に集めていたコレクションはもう無いけれど、特別に大切なものだけでも手元にあれば、きっと、心が癒されるだろうと思ったのだ。
 どうやら、その思いつきは良い結果に繋がったようだ。キラキラと光り輝く、特別なカードとシール。スクラップブックにファイリングしたそれを、パオフゥはその後も、たまにページを開いては眺めているようだった。
(喜んでくれて、よかったな。……でも、もっと)
 もっともっと、集めたい。うららは物憂げな瞳で考えている。まだ足りない。まだまだ欲しい。

 うららは、パオフゥに内緒の調べものを始めた。
 まず欲したのは彼の母校である大学名だが、さすがに直接本人に聞くことは憚られる。彼自身は元々検察官の道を目指していたわけではなかったが、他にも受験者が複数いたことから、法学部を有する大学であった可能性が高く、条件に一致しそうな大学はある程度絞られる。さらに、当該の年の検事任官者の内訳を調べれば、どこの大学から何名が司法試験を合格したかは容易に把握できるのだ。
 ある程度の予測が立ったら、インターネットの掲示板で卒業生を探す。同じ年代の人物が集うスレッドから、芋づる式に同期生候補を掘り当てる。
 そして、メールアドレスを公開している十数人に対し、総当たりで直接コンタクトを取ってみた。
 メールの返信はなかった。それはそうだろう。突然知らない相手から、嵯峨薫という男性のことを知っていたら連絡がほしい、などというメールが来れば、誰だって警戒するに決まっている。代わりに、掲示板に攻撃的なレスがいくつか付いた。
『嵯峨とかいう奴を探してるってメール。送ったやつ誰? マジうざいんだけど』
『こっちも来た。下らねーことで連絡すんなボケ。空気読めよ』
『情報提供料いくらもらえるんだ? 一銭にもならないならメリットないじゃん』
『うちの学部にいたいけ好かないアイツのことかな? 今さら関わりたくねーよな』
『荒らしだろ。迷惑メール設定しとけ』
 あちゃー、とうららは舌を出した。
 単刀直入に用件を伝えたせいで、一方的に要求する形になり、掲示板の住人たちの反感を買ってしまったようだ。普段の仕事ならもう少し時間をかけて慎重に進めているところだが、単独行動で自由度が高いのに加えて気持ちがはやるあまり、つい前のめりになってしまった。
 卒業アルバムをコピーさせてもらったり、生徒伝いで講師にアポを取ったりできるのではないか、と思っていた。かつて彼が手がけたレポートの一枚でも手に入れられるのではないかと。自分なりに奮闘したつもりではあるのだが、残念ながらここまでのようだ。
 ……となると、何か他のものを探さなければならない。
 少し気は重いが、やはり、「あの人」にまつわるものだろうか。
 意外にもその女性、嵯峨薫のかつての相棒である浅井美樹、に関する作業工程はスムーズに進行した。彼女の遺族である妹が本名でブログを運営しており、いくつかの記事においては、家族写真に小さく写り込む形で美樹と思しき人物が確認できたのだ。
 前回の失敗を踏まえて、うららは……嘘を吐いた。
『はじめまして。以前、私の姉が検察庁務めで美樹さんと親しくさせていただいていたようです。重病を患い先月亡くなったのですが、生前、姉はずっと美樹さんのお墓参りに行けなかったことを後悔しておりました。可能であれば、姉に代わって悲願を果たしてやりたいと考えております。不躾で申し訳ございませんが、お気が向かれましたらご連絡をいただけますでしょうか』
 ひどい嘘に多少心が痛むが、これは目的を果たすために必要なことなのだ、と自分に言い聞かせる。
 まもなく、遺族の女性から、丁寧なお礼と意向に沿いたい旨の返信メールが来た。何通かのメールのやり取りの後、二人は、美樹の実家近くの喫茶店で面会を果たし、ともに彼女の墓前に手を合わせた。墓石の向こうから今にも「貴女、以前にもここでお会いしましたよね?」と美樹の声が聞こえるような錯覚に捕らわれて、うららは落ち着かなかった。
 姉は、優しく聡明な女性だったと何度も言っていた。とても良くしていただいたと聞いている。海外で死亡されたというニュースを見た時は衝撃を受け、ずっと泣いていたのを覚えている。そういった無難なことしか言えないうららに対して、それでも、美樹の妹は心からの感謝の気持ちを述べた。
 うららは、すがるような気持ちで伝えた。差支えなければ、姉の仏壇に供えてあげたいので写真をいただけませんか。
 段階を踏んだとはいえ、つい今しがた初めて対面した相手からの物品の要求である。さすがに一瞬戸惑いの表情を見せたものの、うららの真剣な様子に気圧されたのか、おっとりした性格の彼女は、素直にその願いに応じてくれた。

「で、こんなことして、俺が喜ぶと思ったのか?」
 向かい合ってソファに座り、膝の間に両腕を垂らしたパオフゥが低い声で問う。その眉間には深い皺が刻まれている。
 俯いたうららの足元には、彼が放り投げた紙片が数枚、床に落ちていた。
 制服姿の妹と並んで、桜を背に柔らかく微笑んでいる美樹の写真だ。スーツを身にまとい、自宅の玄関前で撮ったとおぼしき写真もある。
「ここまで行っちまうとな、善意の押し売りっつうんだよ。自分が目的達成して満足できりゃ、俺の意向はどうでもいいってか。それが本当にお前さんのやりたかったことなのかよ」
 うららは黙っていた。
 喜んで貰えるはずだと信じていたのだ、最初のうちは。それは、真心という皮を被った欲望に目を曇らされていたからだ。
 あまりにも彼の過去に首を突っ込みすぎていることに、自分でも後悔し始めていた。こんな風に断りもなく、無遠慮に触れたり、無神経に嗅ぎまわったりして良いはずがない。少しずつ膨らんでいく罪悪感から、必死に目を背けていた。だめだと分かっていた。
 けれど、それでも止まれなかったのだ。
 どれだけ「いま」を大切に綴ったとしても、彼が心から求めているものがそこになかったなら。未来を積み上げるより、過去を取り戻すことが彼のためになるのなら。二人で作ったたくさんの思い出よりも、そちらの方がひときわ強く輝いているのだとしたら。
 それを彼にあげるのが一番望ましいではないか。
 本当に? 本当にそうなのだろうか。
 くるしい。
 いやだ。
 ……うららは、怖れるあまり、確かめずにいられなかったのだ。
 俺のためにここまでしなくて良かったのに、馬鹿な奴だな。俺にはもうたくさん写真があるじゃねぇか。お前が撮ってくれた、新しい、大事な写真が。だから、別に必要ねぇよ。
 内心では、そう否定して欲しかったのだ。
 JOKERになってしまったあの時から本質は変わっていない。嫉妬深くて、卑屈で、どうしようもなくて、心底嫌になってしまう。
 壊れたように涙がどっと溢れ始めて、鼻水も垂れて来た。「ふっ……ぐ……うぅっ」情けない呻き声を上げながら、袖と手で必死にそれを拭った。黙ったままのパオフゥが怒りの表情を浮かべているのか、軽蔑の眼差しを向けているのか、呆れているのか確認することもできず、ただただ、俯いたまま膝の上に突っ伏していた。
 やがてパオフゥはため息をついて立ち上がり「もう今日は帰れ。鍵、ちゃんと閉めとけよ」と無愛想な声で呟いて、事務所を出て行った。
 うららは涙が涸れるまで散々泣いて、泣き腫らした顔で鼻をすすりながらのろのろと写真を拾い、汚れを払ってじっと見つめ……それから帰り支度をした。

 何度も喧嘩をする仲ではあった。
 しかし、今回は今までとは違ってかなり長引いている。一週間以上経っても二人は余所余所しく、ぎこちなかった。必要以上に言葉を交わすことをせず、感情の起伏も見せず、お互い他人行儀に接している。ほぼ毎日のように稼働させられていたデジタルカメラも急に仕事を失い、バッグの底で無聊ぶりょうかこっていた。
 季節はすでに夏。まばゆさを増す日差しとはうらはらに、二人の表情は暗かった。

 半熟卵の乗ったベーコンマヨトーストを齧りながら、舞耶は言った。
「ねえ、うらら。パオフゥと何かあったよね。ここんとこずーっと落ち込んでるし、悲しそうな顔してる。仲直りしないの?」
 一足早く出かける準備を終え、カバンの中身をチェックしていたうららは、吐息だけで笑って軽く手を振ってみせる。
「なぁによ。別に仲悪くなんてなってないってば。マーヤのくせに、変なことに気ィ回さなくていいのよ」
「だって、もうなんか、見てられないんだもの」スツールに片膝を上げて座った舞耶が、形の良い唇を尖らせる。「二、三日休んじゃえば? 本当に辛い時ぐらいは、逃げたっていいんじゃないかな。温泉旅行でも行ってパーッと、ねっ」
「できればそうしたいけどね、でもダメ。だって……今回は私が悪いんだもん。今、その罰を受けてるところなんだ。だから……ケツまくって逃げたりできないよ」眉を下げて笑ううらら。「でも、ありがと。行ってくるね」
「……分かった、応援してる。気を付けてね」
 優しく微笑む親友に見送られて家を出るうららの足取りは、まだ少し重かった。
 日傘を差していても、じっとりと汗ばむ暑さだ。ノースリーブの肩に、あるかないかの微風を感じる。
 こんな暑い日には頭がぼんやりしてどうにも良くない。後悔と憂鬱な気持ちばかりが靄のようにぐるぐると渦巻く自問自答の檻の中で、明確な答えだけが出ないまま、延々ともがいてしまう。なんであんなことをしたんだろう。傍にいて、彼に笑っていて欲しかっただけなのに。自分で壊してしまったのは何故なのか。どうして、与えたくて仕方ないのは確かなのに、欲することもやめられないのか。
 分からない。何も。
 虚ろな顔で呆けたように歩いていると、突然、呼び止められて肩を掴まれた。
「おい!」
「……!」座席でウトウトしていたのを急ブレーキで起こされたような、そんな衝撃だった。思わず、日傘を落とすところだった。
 定まらない視線で見上げると、そこにいたのはパオフゥであった。
 通行人が、歩道の真ん中で突っ立ったままの二人を避けて歩いていく。
「さっきから呼んでんのに、無視すんなよ。そんなボーッと歩いてたら危ねぇだろうが。……お前がじゃなくて、お前とすれ違う歩行者が。相手に怪我でもさせたらどうすんだ?」
 むすっとした顔でのたまう。
 長い髪を首の後ろでくるりと巻いて結わえ、こざっぱりとした半袖シャツにざっくり感のあるワイドパンツという姿のパオフゥは、たった今コンビニから出て来たばかりらしく、レジ袋を反対の手に提げている。
「……考え事してて気付かなかった。注意するわ」
 うららは視線を下げた。まだ、目を合わせるのが怖い。
 よりによって、こんなところで偶然会ってしまったことが悔やまれる。事務所まで並んで歩いて行かなければならないなんて、拷問にも等しいではないか。
 急いで歩き出そうとしたら、今度は腕を掴まれた。
「おいおいおい、ちょっと待てって。スルーして行くかぁ? この流れで」
「な、何よ。ちょっと……離してよ」
 彼のひんやりした手指が直に触れる感覚がいたたまれなくて、うららはそれを振り払おうとした。
「うるせぇなあ。ちんたら歩いてたら、着く前にアイスが溶けちまう。とりあえず、そこで食うぞ。出勤はそれからだ」
「あ、アイスって……え?」
 コンビニ袋を眼前に突きつけられ、見ると、薄い白ビニールの向こうに“ダブルアイスバー”の文字がうっすら透けて見える。
 戸惑ううららと、その腕を引くパオフゥの二人は、灼けつく日差しから逃げてビルの影に身を潜めた。
 パオフゥはパッケージを破いて中身を取り出した。それは二本の棒が刺さった爽やかな色のソーダアイスで、真ん中に入った深い溝を境にして、パキリと割ることができるようになっていた。
 勢いをつけて割る。
「あっ」
 予定では、真っ二つに割れるはずであった。
 しかし、まだ午前とはいえ真夏の酷暑の中であるためか、コンビニから出てわずかの間にほんの少し柔らかくなっていたことで、アイスは偏った形に割れてしまった。片方は逆L字に、片方は短いI字に。割り箸がうまく割れなかった時のように、均等でない形状となってしまった。
 ハァ……とため息をついて、パオフゥは大きい方をうららに差し出した。
「俺がミスったんだから、小せぇ方は俺が食う」
 呆気にとられて見ていたうららは、思わずアイスを受け取った。固まっていると、パオフゥが不満げに漏らした。
「撮らねぇのかよ」
「え?」
「写真。食ったものは記念に残すんだろ。カメラ出してる間、それ持っててやるから貸しな」
 渡したばかりのアイスをさっさと奪い取ったパオフゥは、困惑してまばたきを繰り返すばかりのうららを見て、じれったそうに眉を段違いにする。
「さっさとしねぇと溶けちまうぞ?」
 うららは言われるがままに、カメラを出した。両手で二本のアイスを持っているパオフゥに向けて、シャッターを切る。すると、怒られた。
「ちーがーうっつーの! 俺が両手にアイス持ってる写真なんて意味ねぇだろ。こういうのはなあ、二人同時に同じもん食ってるところを撮るだろ、普通」
 片手にアイスを持たされたうららは、仕方なく、反対の腕を伸ばしてカメラを構える。肩を並べた二人は、レンズと向かい合った。
 久しぶりのシャッター音だ。両者とも、こわばった微妙な表情になっていることは間違いない。
 この撮影方法は手ブレや角度のミスが発生しやすいので、精度を高めるため何枚か撮るのがお約束になっている。二人は無言でアイスを一口齧り、次の一枚を撮影した。アイスの棒の角度を変え、いかにも食べる直前、というようなポーズを付けてもう一枚。さらに齧って、もう一枚。
 では次と、うららがカメラを構えると、隣から「うわ!」という悲鳴が上がった。どうやら、残りのアイスが溶けて棒を離れ、地面に落ちてしまったようだ。
 カシャリ。
 思わず顔を見合わせ、保存されたデータを表示してみると、案の定、なんともいえず間の抜けた画像に仕上がっている。
 残像をつけて勢いよく落ちるアイスの塊。思いっきりブレている、パオフゥの焦りの表情。そんなことは露知らず、絶妙なとぼけ顔に写っているうらら。
「プッ……ア、アハハハ、ヤバ」
「ハハッ、だっせぇ! クッソ、なんだよこれ」
「アッハッハッハ」
 二人は爆笑した。通行人が何事かとこちらを見ているが、笑いの虫はなかなか治まらない。笑っているうちにうららのアイスも溶け落ち、「俺の失敗から学べよ!」というパオフゥの渾身のツッコミでまたひとしきり腹を抱えた。
 涙目になりながら、ハァハァと息を整える。
「あーあ、朝っぱらから疲れさせられるぜ。まったく」
「ホントだわ。もう、これから仕事だってのにさ。化粧剥げちゃうじゃない」
 目の下を指で何度も軽く押さえているうらら。
「一体なんだってのよ。今からアイス食うぞって、急にそんなさぁ。小学生じゃないんだから」
「いや……こないだ、聞いたんだよ。周防に」
「周防兄に?」
「ああ。『青春ってやつの感覚が俺にはイマイチねぇんだが、お前はどうだ? どんな青春の思い出が特に心に残ってる?』ってな。そしたらよ」パオフゥはポケットに手を入れ、ビルの壁にもたれ掛かった。「『昔、よく弟と半分こした棒アイスが今でも忘れられない』って言うんだ。どんな豪華なケーキを作れるようになっても、一つの菓子を分け合って食べる喜びや楽しさには敵わないのかもしれない、ってな」
 ビルの隙間を抜ける風が、笑いすぎて火照った頬をそっと撫でる。
「俺はガキの時分、そんな風に誰かと小さなモンを分け合ったことなんてなかった気がする。大勢のダチと遊んでるか、独りでいるかのどっちかだったからな」
「それで、やってみたかったんだ?」
「まあな。冷房ガンガン効いたコンビニの中で震えながら立ち読みして、お前さんを待ち伏せする羽目になったが……実際、悪くねぇもんだな」
 おかげで、ギクシャクしてたのもようやく解消できたしな、と言外に言われたような気がして、うららの両手に力がこもる。
「あ、あのさ……こないだは、ゴメン。ちゃんと、謝ってなかったよね、まだ。……ホント、ゴメン。私、自分勝手だった。パオにとっては、昔の思い出を取り戻す方が有意義なんじゃないか、私なんかが撮った写真がいっぱいあるより美樹さんの写った写真一枚の方がいいんじゃないか、って……つい、思っちゃった」
 パオフゥは黙って聞いている。
 責められているわけではないのだが、うららは居心地が悪くなって、つい早口になる。
「だ、だってさ。私には分かんないもん。不安なんだもん。パオが今、幸せかどうか。パオが幸せになるために、私が役に立ってるのかどうか。過去の記憶をどれだけ大事に思ってるのか、いつまでも心に留めていたいのか、忘れたいのか……とか。何も分かんないから、何をしてあげられるか、何をしてほしいのか……分かんないのよ。それで、頭ぐちゃぐちゃになっちゃって」
「……ったく、ややこしく考えすぎなんだよ」アイスの棒を教鞭のように振るって、パオフゥはうららを差した。「あのな。俺は結構、あの思い出帳ってやつを気に入ってんだ。まめな性格のお前さんらしく、一ページずつ丁寧に切ったり貼ったり飾ったりするのが面白くて、割と貰うの楽しみにしてるんだぜ。せっかく頑張って新しい思い出作りの企画立てたりしてるのによ、わざわざ……そこに美樹を連れてくる必要あんのか?」
 うららは少し涙ぐんでしまった。
「まあ、カードとシールは嬉しかったけどな」と笑うパオフゥ。「別に、平凡なプレゼントだって俺は嬉しいぜ。俺のために選んでくれたものが嬉しくないわけねぇだろ? だからよ、もう変なことして無理矢理に古くなった思い出を引っ張ってこようとするんじゃねぇぞ。分かったか?」
「……はぁい」
「よし、じゃあそろそろ行くか。実はな、事務所にいいモンがあるぜ。芹沢が大はしゃぎ間違いなしのヤツが」
「え? 何だろ。ロマネ・コンティとかかな。それか松坂牛とか」
「い、いや、そこまでいいモンではねぇが……阿呆、ハードル上げるんじゃねぇよ!」
 二人の距離はようやく、一つの日傘に収まる程度まで縮まったようだった。
 晴れ渡った空の下、事務所までの道のりを、久しぶりに言葉を交わしながら笑い合って歩いた。

 夕方、互いの仕事に一区切り付いた頃、パオフゥは戸棚の裏から線香花火セットを引っ張り出してきた。
 また普段通りになったら誘ってみるか……と、数日前に買ってきて隠しておいたのは良いが、思ったより不和が長引き、ほとほと参っていたのだと言う。
「夏らしくていいんじゃねぇかと思ってな。やるか?」
 この素晴らしい提案に、うららは案の定大喜びであった。
「えーっ、何それ。やるやるぅ! しかも線香花火オンリーって、センスいいじゃん。大人じゃん。分かってるわねぇ。パオ、最高!」
 缶ビールを買って、近所を流れる小さな川の河川敷まで歩く。
 事務所を出た時はまだ明るかったのだが、買い物をしたりバケツに水を汲んだりしている間に、辺りはすっかり暗くなっていた。道沿いに街路灯が立っているおかげで真っ暗ではなく、程よい塩梅だ。
 促されて、パオフゥが一発目の線香花火に火を灯した。
 しゃがんで並んだ二人の間で、パチパチと乱れて弾ける炎の粒が、一瞬だけ、彼岸花の花束のように激しく燃え上がった。緩やかに小さくなっていき、そして……玉になってぽつり、と落ちる。
「綺麗……でも、あっという間に終わっちゃうね」
「そうだな」
 すぐに火を点けると、また同じようにちかちかとした火花を撒き散らす。静かな夜に、虫の音、そして線香花火の燃える音が重なる。オレンジ色の小さな光に照らされる横顔を、うららはシャッターを押して大事に保存する。
 撮ってないでお前もやれよ、と言ってパオフゥがカメラを取り上げるので、うららも花火を手にした。
「ねぇパオ知らないでしょ。すぐに落ちないようにするコツがあんのよ。あのねぇ、こうやって真っすぐ持つんじゃなくて、ちょっと斜めに持つの。で、火をつける前にこうやって火薬をぎゅっとつまんで、少し固めるといいのよぅ」
 同じ団地に住んでる子供たちの中で私が一番線香花火が巧かったんだから、と、得意げにやり方を披露してみせる。
「いい? 見ててね」
 火を点けると、確かにパオフゥの花火より長く燃えているようだ。
「……へぇ、なるほどなぁ。そんなテクニック、聞いたことなかったぜ」
「へへっ。まあ、男子って、線香花火よりねずみ花火とかの方が好きだったもんね。爆竹とかさぁ」
「ロケット花火とかな。派手に燃えるスティック花火を振り回して遊んで叱られたり」
「そうそう。ねずみ花火も、女子の足元に放って泣かせるのに使ったりしてね。ほんと、お馬鹿なんだから」
 うららは楽しそうな笑い声を上げたが、「ほら、喋ってないで、次のをやれよ」と手渡されたので、大人しく火を点けた。
 静かで控え目な、火薬の燃える音と匂い。夜の真ん中に花開いた、小さな小さな閃光。その儚さを愛おしく感じながら見つめていると、パシャリ、という音が小さく響いた。
 思わず顔を上げる。
 カメラを構えたパオフゥと目が合った。にっ、と笑った顔が一瞬照らされてから、火の玉が落ちて消える。
「ちょ、ちょっと……なんで、私を撮るのよぅ。意味分かんないんだけど」
 うららは赤くなる。
「たまにはいいだろ? 記念だ、記念」
「何の記念よ。もう」照れながら、缶ビールを開ける。「単体で撮るなら、こんな普段着じゃなくて、もう少しちゃんと……浴衣とか、着てる時にして欲しいんだけど」
「ふぅん……そいつぁつまり、今度の花火大会の事前予約、って解釈すりゃあいいのかい?」
「えっ?」
 驚くうららをよそに、パオフゥも缶ビールを開けてぐいと呷った。
「花火大会?」
「なんだ、知らなかったのかい。思い出作りに命かけてる人間のくせして、抜けてるな、お前さんは」
「うるさいわね。それっていつ?」
「来月末だ」
 八月の終わりに、去りゆく夏を締めくくる大輪の花火。きっと、美しく輝いた季節とのしばしの別れを、鮮やかに彩ってくれることだろう。
「んふふ、そっか、楽しみだねぇ。もちろん予約でお願いしまーす。あ、じゃあ折角だからさ、パオも浴衣で来てね」
「俺はいいよ、面倒くせぇ」
「浴衣同士の方が写真映えするんだってば。絶対、パオも浴衣着てよ!」
「そもそも持ってねぇっての」
 爆ぜる二つの線香花火、穏やかな笑い声、夏草の香り。バケツの水に映り込む濃紺の夜空に、小さな星が煌めいていた。
 忘れられない記憶のページが、また増えた。

3

 月が変わり、照り付ける陽光は日を追うごとにジリジリと強さを増している。
 折よく、重なっていた案件が三つ同時に片付き、ほぼ半年ぶりに完全に手が空いたパオフゥは、かねてより構想していたwebサイトの改修に着手していた。依頼に際してのQ&A、相談と調査のフロー、実績の数値とお客様の声、事務所へのアクセス詳細、見積り依頼フォームなどなど、新設すべき項目は山ほどある。
 仕事においても生活においても、必要最低限のものだけあればよいという性格のパオフゥであるから、今までは業務内容とざっくりした料金目安、電話番号、メールアドレスしか載せていなかった。うららが、そろそろうちのホームページなんとかしたいんだよね、と言い始めなければ、ずっとこのままだったかもしれない。どうやら、依頼者へのアンケートを独自に集計した結果、インターネットからの流入をもっと強化するべきだと考えたらしい。もとは営業畑の彼女らしい提案であった。
 うららが暇を見つけてはコツコツと作っておいた原稿を、リニューアルしたページテンプレートに適用していく。各ページで使用している画像は知り合いに発注して作ってもらったものである。……無論、今回は噂ホームページの時のような尖ったデザインではない。ビジネスライクで、清潔感があり、たいへんマイルドなものだ。
 折角だから、名刺もリニューアルするかな。パオフゥは腕組みをする。ブラックのラインに金色の箔押しのロゴがクールで気に入っているが、もっと落ち着いた、安心感のあるデザインにした方がいいだろうか。
 後で相談してみるか、と思っている時、タイミングよく裏口のドアが開いた。銀行へ行っていたうららが戻って来たようだ。
「おう、お疲れさん。丁度良かったぜ。ちょいと相談に乗ってもらいたいんだが」
 しかし、どうも様子がおかしい。部屋に入って来たその顔は暗く沈んでいる。かろうじて聞き取れるほどの小さな声で、ただいま、と呟いたきり、カバンも降ろさず佇むうららに、パオフゥは首をかしげた。
「どうした? 外は暑かったろ。こっちに座って冷たいコーヒーでも飲んだらどうだい」
 声をかけると、困ったような顔でこちらを見る。
 しばらく、逡巡しているような素振りで口をつぐんでいたが、意を決したようにうららは切り出した。
「あ、あのさ。もし……もしもの話なんだけど。昔のパオをよく知っていて、当時から、その……今でもずっと変わらずに愛してる、って女性ヒトがいるとしたら……どう思う?」
「あん? なんだよ、藪から棒に」
 突拍子もない問いかけに、パオフゥは顰め面をしてみせる。
「だからさ。もしその人が……アンタを、忘れてなくて。長い間想い続けてくれてたとしたら? そしたら、どうすんのさ、ってことなんだけど」
「何を言い出すかと思えば」ハッ、と笑うパオフゥ。「俺の過去がどうの、昔の女がどうの、まだそんなことばっかり考えてんのかい。暗い顔してないで、もっと他のこと考えたらどうだ。そうだな……次は水族館にでも行くか? 飯屋でいいなら今日の夜でも構わねぇぞ」
 うららは眉を吊り上げる。
「ねえ。茶化すのやめてよ。私、本気で聞いてんのよ?」
「いや、別に茶化してはねえが」
 その怒気にパオフゥは少しだけ怯み、それから渋々、真面目に考えてみた。
 かつて知り合いだった女性が、自分を想い続けていたとしたらどうか、だと?
「……そんなの、どうだっていいさ。俺の視点からはもう観測できなくなった事象だ。そいつが俺に何か望んだとしても、俺にはどうもしてやれねぇし、どうでもいいことだ。俺には……お前さんが作ってくれた新しい思い出もあるしな」
 話しながら立ち上がって、本棚に置いてあるスクラップブックの背を指でなぞる。その表情は、彼自身は認識していないが、ひどく穏やかで優しいものであった。
 しかし。
「ダメだよ、そんなの」彼とは対称的に、うららの顔は悲しそうに歪んでいる。「過去そのヒトのこと……どうでもいいなんて言っちゃ」
 パオフゥは戸惑った。いったい何の話をしているのだろうか、この女は。まるで解らない。
 うららは苦しそうに吐息を漏らし、思い詰めたような顔で
「だめだ。私……悪いけど、二、三日ぐらい休ませてもらうわ。急ぎの仕事なんもないし、いいよね?」
 と言ったかと思うと、返事も聞かずにさっさと帰り支度を始めてしまった。
「な、何だと? 急にどうしちまったんだよ、芹沢。休むってお前……」
「旅行でも行って頭冷やしてくる」
「旅行だぁ!?」
 唖然とするパオフゥを置いて、彼女はあっという間に出ていってしまった。
「一体何だってんだ……?」

 きちんと対話するために何度も電話をかけたが、結局うららがそれを取ることは一度もなかった。ルームメイトである舞耶に取りなしてもらうべきか迷ったが、人づてに話をしても解決はしないだろうと考えたので、やめた。
 翌日、やはりうららは来ない。パオフゥは釈然としないまま、webサイトのコーディング作業を進めていた。意味が分からねえ、アイツなんなんだよ、と何度も独り言をつぶやきながら。
 いつも予想外の行動で人を振り回して、気持ちを乱してくる。まったくもって癪に障る奴だ。どうせ今回もおおかた、下らない妄想で暴走してしまっているだけなのだろう。ぶすくれた顔でコードをこねくり回していると、客が廊下で受付ベルを鳴らす音がした。
「あー、へいへい、っと」客あしらいはあまり好きではないのだが、うららがいないせいで、自分が対応するしかない。パオフゥは億劫そうに背伸びをしながらドアを開けて出て行った。「らっしゃいませ、どうも」
 立っているのは三十代前後の女性だ。顔の横でゆるく結った髪が、控え目な色合いのブラウスの胸元にふんわりと沿っている。スカートの裾から伸びるすらりとした足を飾る小さなパンプスが、華奢な印象を与える。
「あの……」女は口を開いた。「会いたい人がいて。こちらへ来れば、会えると聞いたんですが」
 声を聞いた瞬間、ぴしり、と記憶の封印が外れる感覚があった。パオフゥは思わず目を見開く。
 それと同時に、彼女の方も驚きの表情を浮かべた。
「嵯峨くん……?」
 間違いない。
 大学生時代にワンナイトした女だ。たしか、マナミとかいう名前だったはずだ。強制参加させられたゼミの飲み会で浮いている彼に話しかけてきて、そういう雰囲気になって、一回きりでいいなら、という約束で寝た。
「……ねえ、本当に、嵯峨くん……なの?」
「いや……人違いだ」
 慌てて顔を背け、事務所に引っ込もうとするパオフゥ。なぜ彼女がここに? どうして俺だと知っている? 咄嗟のことで頭が回らないが、とにかく正体がバレるのはまずい。早く逃げなくては。
「待って!……お願い、待って。こっちを見なくてもいいから、そのまま、聞いてほしいの」
 ドアノブに手をかけたまま足を止めたパオフゥは、背中で、彼女の声を聞いていた。

 八年前。あのニュースを聞いて、嵯峨薫は死んだと思った。
 身もちぎれるほどの悲しみに襲われて、その時初めて、気付いたのだ。たった一度の関係にもかかわらず、彼が、大切な存在として心に留まり続けていたことに。
 周りの皆は忘れても、自分だけは忘れられなかった。
 自暴自棄になり荒れた生活を送った時期もある。
 だから、つい先日。嵯峨薫のことを尋ねてくるメールが届いた時は、当時の記憶が鮮明に蘇って辛かった。
 メールを削除してしまいたかったが、どうしてもできなかった。
 日が経つにつれて、何の目的があって彼のことを調べているのか、気になって仕方がなくなった。
 だから、間は空いてしまったが、思い切って返信してみたのだ。
 メールの送り主は、彼の過去を知らないがゆえに、もっと知りたかったのだ、と語った。けれど、もう無理に探すのはやめた、彼はそんなことをしても喜ばないから……とも。
 その真摯でひたむきな言葉に胸を打たれ、思わず、電話で連絡を取れないだろうか、と打診した。
 マナミは、電話で彼との関係を語った。それは、自分なりの懺悔であったかもしれない。
 できることなら彼の墓前に手を合わせたい、と伝えると、相手はしばらく悩んだ後「もし、嵯峨薫が死んでいなかったとしたら、彼に会ってみたい?」と尋ねたのだ。
 そして、ある住所を口にした。「ここへ依頼に来て。そうすれば彼に会えるかもしれない。あなたが心から会いたいと願うなら」と。
 だから今日、ここへ来たのだ。

 話を聞き終えたパオフゥは、深いため息をついた。
「アイツはどこまでも……阿呆だなぁ」
 うららが急に、旅行休暇などと言い出した理由も分かった。二人を引き合わせるようなことをしておいて、そのくせ、立ち会う勇気がなかったのだろう。不器用とは思っていたが、これほどまでとはな。パオフゥは呆れた。
「優しい女性ヒトね」
 胸に秘めてきたもの全てを、ようやく伝えることができたマナミは、静かで安らぎに満ちた声色をしていた。
「お節介なんだよ。頼んでもねえのに余計な事しやがって。俺が望んでようが望んでなかろうが、自分が傷つくことになろうが、後のこたぁなんも考えちゃいねえ。……勝手な奴だよ」
 パオフゥは頭を掻きながら玄関ドアを出て、掛札を返して「CLOSED」にした。
「まあ、こうやって再会したってことは、縁があったんだろうぜ。アンタが余計なことを触れ回るつもりがないってんなら、少しぐらいは身の上話をしてやってもいいが……どうだい?」
 真剣な顔をした女は深く頷いた。

 パオフゥは車で彼女を送っていくことにした。
 市内を北西方面に突っ切って高速に乗る道すがら、ある程度ぼかしながら、自身の半生を語って聞かせた。検察官になって珠阯レ地検に配属され、優秀な検察事務官とともにいくつもの捜査を担当したこと。正義の執行人として錦の御旗を掲げ、自分に解決できない事件はないと奢り高ぶっていたこと。……そのせいで目が曇って、すべてを失ってしまったこと。おめおめと自分だけ生き延びてしまった絶望、大切な人を殺された怒りを胸に、苦しみ抜いて生きた日々。あの日誓った復讐は自分なりに果たしたが、なくしたものは永遠に返ってくることはない。人生には悲しいことが多すぎる。
 けれど、何も残らなかったわけではない。長く冷たい雨が過ぎ去った後に、彼の土壌には小さな種が芽吹いていたのだ。
 初めての仕事、新たな相棒。背中を預けた戦友だっている。ここからもう一度スタートできる。
「仕事で感謝されたとか、誰かがそばにいてくれたとか、旨いもんを食ったとか、そんな些細なことでもいいんだ。いいことがほんの少しでもありゃあよ……クソみてぇなことばかり起きる人生だって、なんとか凌いで、やっていけるもんだよな」
 うららの思い出帳を脳裏に浮かべて、パオフゥは微笑んだ。
 助手席の彼女はじっと耳を傾けていた。そしてゆっくりと言葉を継いだ。
「そう、だね。……私にも、少しだけいいことはあったんだ。実は、告白されてるの。年下の同僚に」
 引きずっていた過去に区切りをつけ、新しい愛に踏み出す勇気が出たかもしれない。ありがとう。そう語る表情は晴れやかで、パオフゥも同じように清々しい表情をしている。
 彼女は、躊躇いながら口を開いた。
「昔の、友達として……また連絡してもいいですか?」
 パオフゥは少しの間考え込んだが、
「……いや。悪いが、これきりだ」と笑った。「そうでないと、きっとアイツが不安でぐちゃぐちゃになっちまう。表向きは平気な顔して内心で嫉妬して、そんな自分を嫌悪して傷付くだろうからな。……まったく、面倒な女だよ」
「そっか。本当に、大切な人なのね。強く想い合っていて……ようやく貴方が幸せになれそうで、安心した」
 そんなんじゃねぇよ。パオフゥは咄嗟に否定しようとした。だが、なぜだか言葉にする前に掻き消えてしまう。

 その時。突如ドクン、と鳴動する感覚に襲われ、一瞬だけ視界が揺らいだ。
 この感じは覚えがある。
「……何だ?」
 ハンドルを片手で握ったまま大きく振り返ると、高速道路を猛烈な勢いで走ってくる車両が見えた。高速バスだ。比較的小型の種類とはいえ、バスとしてはあり得ないほどの速度で爆走している。どう見ても時速百三十キロ前後出ていそうだ。
 目をすがめてよくよく見ると、前の車を追い抜く度に車体が大きくかしぎ、中の乗客がバランスを崩して振り回されているのが分かった。そして、荒っぽいハンドルさばきを見せる運転席の男は、帽子とスーツのかわりにマスクとサングラスとポロシャツを着用しており、明らかに正規のバス会社職員ではない。
 極めつけは、乗降口付近に立っている人影だ。その人物は、頭の両側で髪をくくった幼い子供を小脇に抱えて、乗客に向かって手に持った何かを振り回している。
 バスジャックだ!
 前に向き直って、パオフゥは考える。おそらく、本来の運転手は拘束されて床にでも転がされているのだろう。そちらにもバスジャック犯が付いているのだとすれば、主犯は三人ほどだろうか?
 見る間に、クラクションをけたたましく鳴らしながら、バスは彼らの車を追い越していった。
 すれ違う車窓を見る。固唾を飲んで震えている乗客の中で唯一、一番後ろの座席の窓からこちらを見ている女がいる。
 ペルソナの共鳴でもしやと思っていたが、やはり、うららだ。間違いない。
 まさか、旅行バスでバスジャック犯と乗り合わせるとは、なんたる不運であろうか。
 表情はよくわからないが、口をぱくぱくと動かして、身振り手振りで何かを必死に伝えようとしている。
「三……やっぱり三人なのか。前? で、ピストル? ピストルが…二本か。運転……殴る? ああ、殴られて気絶してんのか。デコピン……じゃねえ、俺の指弾かよ! 指弾で援護しろって? ったく、無茶苦茶な要求しやがる」
 なんとか彼女の伝えたいことを汲み取ったパオフゥは、OKOK、とばかりに、面倒くさそうな顔で親指を立ててみせた。
 そうこうしている間に、バスは完全に車の横を通り抜けそうだ。
「無法者にオーバーテイクを許すほど……俺は平和ボケしてねぇぜ!!」
 パオフゥはアクセルを強く踏み込んだ。メーターの針が勢いよく振れる。ぐんとスピードを上げた車が、暴走バスの後方からじわじわと追い抜いていく。
「なあ、アンタ。悪ぃが、ちょいと、ハンドル持っててくれねぇか?」
「えっ!?」
 言うが早いか手を離す彼に、助手席のマナミは仰天した。「あの、ちょっと!? 嘘でしょ!?」
 運転席の窓を全開して、上半身を乗り出す。風がごうごうと唸りを上げ、パオフゥの長い髪を激しくはためかせた。
 並走するバスの前方、昇降口の近くに立っている男はドアの窓から丸見えだ。しかも、その注意は乗客に向かっているため、こちらの存在をまだ知らない。子供を抱えているとはいえ、当てるのはそれほど難しくないだろう。
 ところが。
 バスジャック犯に対して狙いを定めるパオフゥの存在に、窓側の乗客数人が気付いた。もちろん、助けを求めたり、不用意に声を上げたりするわけではなかった。しかし、乗客みなが緊張して犯人たちの一挙手一投足を見守る中、外を気にする者がいるという違和感。その視線、その気配に、気付かないはずがない。
 二つ結びの女児を抱えたまま、犯人は振り返る。ぴったりと横に付けた車、こちらを睨みつけて何かを構える男。状況を把握し、ギョッとした犯人は窓ガラス越しに発砲した。
 銃弾はルーフを掠めて飛び去って行ったのだが、パオフゥは舌打ちをした。
「あーあ、コスりやがった。てめぇ、ふざけんなよこの野郎」
 静かにキレた彼の手元から、目に見えない速度の弾が射出され、ヒビの入った窓ガラスを貫通して犯人の利き手を捕らえた。拳銃は弾き飛ばされ、男は腕から血を流して車内に倒れ込む。その反対の腕の中から必死に逃れて、座席の奥へ走っていく女児と入れ違いに、うららが駆け出す。
 突然始まった銃撃戦に驚いている犯人グループの男めがけて、渾身のパンチを捻じ込む。ノックダウンした犯人から拳銃を取り上げ、負傷した方の男と一緒に、あっという間に荷造り用のヒモでぐるぐる巻きに縛り上げてしまった。
 仲間が次々と取り押さえられた以上、運転席の男も両手を上げて全面降伏せざるを得なかった。
 非常駐車帯に停車したバスは、喜びに沸き立つ人々の声、恐怖から解放され泣く人々の声、そして犯人を取り押さえた勇敢な女への感謝の言葉で溢れかえった。
 ドアを開け放ち、リュックを担いだうららが駆け下りてくる。
「パオ!!」
 勢いに任せて飛びついてくるのかと身構えたが、うららは数歩手前で立ち止まった。つい、受け止める体勢を取ってしまったことを悟られないよう誤魔化しながら、パオフゥは「おう。怪我はしてねぇか」と、何でもない風の挨拶を返した。
「うん。いやぁ、ビックリしちゃった、まさかこんなことになるとは思ってなくて、参ったわ。狭い車内で発砲されたら怪我人が出ちゃうし、こっちは一人だし。どうしたもんかと思ってたから、丁度いいところにアンタが来てくれて助かった。……そういや、なんでここにいるの?」
 ちらりと後ろを振り返ると、車を降りておずおずと付いてきていたマナミが、うららに向かってぺこり、と頭を下げた。
 直接会うのはこれが初めてだが、既に二人は電話で話している。互いに、あの時の相手だと一目で分かったようだった。
「車で送っていく途中だ」
「……そっか」
 ぎこちなく笑ううらら。自分が引き合わせたのだ。余計な詮索はすまい、と、唇を引き結んで黙ってしまった。
「お前は? どこ行く予定だったんだよ、あのバス」
「え、私? 私は……熱海だけど。温泉にでも浸かってのんびりしようかと思って」
「熱海か。まあ、悪かねぇな。折角だし、俺も骨休めしていくとするか。付き合ってやるよ。そうと決まれば、ほれ、乗りな」
 うららはフリーズした。
 今、何と言った?
 驚いて凝視するうららに、パオフゥは平然と言った。
「なんだよ。まさかこの期に及んで、あのバスに乗って行くつもりじゃねぇだろうな? 無理だろ。もうすぐサツが来るだろうし、事情聴取に付き合わされて旅行どころじゃなくなっちまうぜ?」親指で車を指してみせる。「分かったら、さっさと乗れよ」
「いやちょ、待って待って。だってパオはこの人を……」
 うららは慌てて手を振る。
「大丈夫です。私、次のインターで降ろしてもらいます」マナミは笑った。「その足で、私に告白してくれた人に返事をしに、会いに行こうかなって」
「えっ?」
 展開について行けなくなっているうららの背をパオフゥが押して、助手席に放り込む。後部座席にも乗り込んだのを確認すると、パオフゥはさっさと車を出した。
「……あの、告白って?」
 恐る恐る尋ねるうらら。
「だからよ、この人にはもうそういう相手がいるんだっての。お前さんは本当に粗忽だなぁ。当人同士の気持ちもろくに確認もせず、毎回一人で勝手に突っ走りやがって。いい加減に懲りたらどうなんだ?」
 彼女にしてみれば、ある種、傷心旅行にも等しい気持ちでいたのだ。それなのに、なんだか知らないうちに事件に巻き込まれて、人を助けて感謝されて。気が付けばこうして隣にパオフゥがいて、いつものように叱られていて。それがたまらなく嬉しい。
 嬉しいけれど、どうしていつも、こうなるんだろう。彼を幸せにしたいだけなのに。なんだかやっぱり、頑張ってみても、気を利かせたつもりでも、上手く行かないのだ。
 やれやれ、とパオフゥは呟いた。
「こりゃもう、そろそろハッキリ言わなきゃ駄目だな。ったく、しょうがねぇ奴だなぁ」その横顔は笑っている。「……俺にとって今、一番大切な存在はなぁ。他でもねぇ、お前なんだよ。それ以外のものなんて、別にいらねぇよ。お前がそばにいてくれるだけで十分幸せだ。だから、変な心配すんなっての。俺の過去なんて見なくていいから、俺だけ見てりゃいいんだよ。分かったか?」
 うららは、込み上げる想いを堪えきれずに涙を零した。
 こんな時ぐらいちょっと口を滑らせてくれてもいいのに、やっぱり「好きだ」なんて言いやしない男だ。なのに、うららが胸の内に抱え続けていた劣等感も、焦燥感も、すべて優しく溶かしていってしまう。オーソドックスな言葉なんかよりもずっと暖かく、喜びで全身を満たしてくれる。
「……えっと、差し出がましいかもですけど」遠慮がちに、後部座席から声がかかった。「宿泊先に、人数変更できるか、電話しておいたらどうでしょうか。今のうちに。この流れで別々に泊まるとか、ちょっと、ないかなって」
 泣いているうららに代わってパオフゥが照れる。
「あ、あのなぁ。面白がって、変なこと言うのやめろよ」
「だって、これって青春じゃない? 今、嵯峨くん、とっても青春してる感じがするよ」
 バックミラー越しの顔が嬉しそうだ。
「……青春、ねぇ」
 甘酸っぱくて、ほろ苦くて、青臭くて。それでいて、宝石よりもひときわ美しく輝いて、心の深いところで熱く脈打っている。うららが与えてくれたそれを、青春と呼ぶのなら、確かにそうなのだろう。

 やがて高速道路を下り、軽やかに走る車の左手の窓いっぱいに、相模湾が見えてくるはずだ。真夏の青い空と白い波に興奮した彼女はきっと、ビーチでも泳ぎたいね、と言い出すに違いない。
 しゃあねえ、夏季休暇のため明後日まで休業ってことにするか。
 さて、どんな水着をプレゼントしてやろうか?
 そんな事を考え始めている自分が妙におかしくて、そして、どうしようもなく幸せだった。