ストレンジャー

 激しい痛みに見舞われ、俺は呻き声を上げた。暮れ始めた夕空の下、砂利の上にうつ伏せで横たわっている。

「……痛ぇ……」
 俺に一撃を食らわせたと思しき敵の気配は既になく、幸いにも意識ははっきりしている。不幸にも……と言うべきだろうか?またしても、無様な俺はくたばり損なっちまったらしい。
 いや、違う!今はまだこんなところで死ぬわけにはいかねえんだ。必ず帰らなければ、あの国へ!
 額から頬まで血が垂れて、乾いて引き攣っているのが分かる。頭を振りながら身を起こし、手探りでサングラスを拾い、かけようとして気付いた。
「……俺のじゃねえな」
 丸いフレームの外側をもう一本のアンダーリムが支える、凝ったデザインのチタン製サングラスだ。それなりに値が張るに違いない。露天商から買った俺の安物グラサンはどこへ行った?
 物は試しと、その落とし物をかけてみると、まるで俺のためにあつらえたように、度数もサイズ感もピッタリだ。
 ピッタリだというのに、俺は吐き気がする程の違和感を感じていた。
 見覚えのない金ピカのテーラードスーツに本革の手袋、ジャラジャラしたアクセサリー類を俺は身にまとっている、いつの間にか。誰かが気を失ってる俺に着せ付けたってのか?何のために?
 そして、服はともかくとして、この腰に届く程の長髪は何だ!?
 確かに、最近髪を切っていないので、だいぶ伸びてはいる。しかし、それにしても長さが段違いだし、ろくに洗っても梳いてもいないボサボサの俺の髪とは違い、きちんとカットされているし、スムーズに指が通る。
 頭を触って確かめてみる。カツラなどではなく、どう考えてもこの頭皮から直に生えてる本物の毛髪だ。
 俺は一体どうなっちまったんだ!?


 辺りを見回すと、ここは切り立った崖の上の高台のようだ。眼下には市街地が広がっていた。風は冷たいのに、どこかのどかさを感じる風景だ。
 救急車のサイレンが遠ざかっていく音が聞こえる。聞き慣れた音とは違うそれに、俺の心臓が早鐘のように打ちはじめた。
「嘘だろ?」
 今となっては懐かしい、日本の救急車の音だった。
 頭が混乱していた。
 俺はさっきまで文山(ウェンシャン)のさびれた商店街にいたはずだ。路地裏に座り込んでいた小汚い若造に親切にしてくれた、乾物屋の爺さんの顔が脳裏をよぎる。今日は店の軒下で眠って行けばいいと言ってくれたその顔を掠めて、銃弾が飛んできた。肩を吹っ飛ばされた俺は激痛と怒りに吠え、"あの忌々しい力"を解き放った。覚えているのはそこまでだ。
 気を失って、夢を見ているのだろうか。明晰夢という現象を知ってはいたが、体験するのは初めてだ。
 その内容が、知らぬ間に髪が伸び、上等な服に着せ替えられて、屍の山を築いてでも必ず帰ると誓った祖国の土を踏んでいる夢だと?俺もだいぶヤキが回ったもんだな。自嘲の笑いが込み上げてくる。
 夢なんて見ている場合じゃないだろうが。さっさと目を覚ませよ。
 だが、念じようが、頬を強く叩いてみようが、現実世界に戻れそうな様子はなかった。俺は次第に焦りを感じ始めた。路地裏で意識をなくして倒れたままの体は無防備になっているはずだ。おいおい、早く起きないとまずいんじゃねぇのか?


 突然、少し離れたところに転がっていた人影が、うぅん……と小さく声を上げたので、俺はギョッとした。てっきり死体かと思っていた。
 女だ。派手な髪色に濃い化粧をしている。
 たとえ夢だろうが、先手を取られるのはまっぴらごめんだ。俺は咄嗟に足元のチャカを拾い、弾倉を確かめながら、失神している女に向けて構えた。セーフティは既に解除されている。グロックの九ミリ、軽さは折り紙つきで、女の構成員に持たせるには悪くない銃だ。だが妙だな……俺はこの銃を実際に触ったことがない。天道連の末端どもに支給されるのは、ほとんどが中国製の五四式拳銃だ。
 慎重に近づいて、ロングスカートに覆われたふくらはぎを軽く蹴ると、女は飛び起きた。
「ひっ!?な、なにすんの……!」
 はっきりした発音の日本語だ。
「騒ぐんじゃねぇ」すかさず、ドスを効かせた声で脅す。「騒ぎ立てるなら脳天に風穴が開くことになるぜ」
「そ、その銃……」女は目を白黒させながらただ混乱しているようだった。敵意は感じない。
「質問に答えな。ここは何処だ?そしてお前は何者だ?」
「え?何言ってんの……?こ、ここは比和出ひわで市で、私は……」女の表情が曇る。「ねえ、本気で言ってる?私のことが分からないっていうの?まさか……その怪我のせいで、記憶が?」
 戸惑いの表情が俺をイラつかせる。女のこめかみを小突くように銃口を押し当て、俺は唸るように吐き捨てた。
「おい……質問してるのは俺だ。二度言わせるんじゃねえぜ」
 女は悲しそうに怯えた声を絞り出した。
「うららよ。アンタの敵じゃない。お願いだからそれ……引っ込めてよ……」
「……」
 白旗を上げるってわけか?まあいい。心の底から信用するつもりはないが、無抵抗の女を嬲る趣味もない。うららと名乗る女の動きに注視しながら、ポケットに銃をしまった。
「……ここにいたら、アイツが戻ってくるかも」一瞬、崖の方に怯えたような目を向けるのを見た。「一旦、家に帰ろうよ。歩きながら話した方がいいと思う」


 山道を下りながら、うららは俺に語った。
 俺たちがコンビを組んで人探しの仕事をしていること。半年前からこの街で一緒に暮らしていること。
 調査の途中で尾行に勘付いたターゲットが例の銃で襲いかかってきて、なんとか撃退はしたが、二人ともダメージを負ってしまい取り逃がしたこと。
 話半分に聞き流しながら、自分に呆れ、はらわたが煮えくり返る思いだった。てめえの贖罪も果たさないうちに、新しい女と組んで仕事をねえ。ずいぶんと無責任な夢を見るもんだな。ええ?パオフゥさんよ。


 うららは古びたアパートの扉を開け、俺は見知らぬ部屋に足を踏み入れた。
「そこに座って」
 ダイニングキッチンの椅子に腰かけ、うららが戻ってくるのを待った。室内を見回し、食器棚で視線を止める。ガラスに映った顔は、年齢を重ねて多少風貌が変わってはいるが、間違いなく俺のものだ。
 見る夢にはそいつの深層心理が現れるっていうが、もしそうなら俺は「こんな感じになりたい」と思っているか、はたまた、「こんな感じになるだろう」と思っているか、どちらかということになる。
 ……だが、こんな奇抜な形状のグラサンのデザインは目にしたこともないし、俺のイマジネーションの引き出しに存在するとは思えない。そこが引っかかっている。
 これは本当に夢なのか?
 椅子に座ったままそんなことを考えていると、うららが絞ったガーゼタオルを持ってきて、顔に付いた血を拭った。何度も傷口を確かめ、痛むか、異物感はないのか、大丈夫かとしつこく聞いてくるので、鬱陶しかった。しまいには薬箱から消毒液を取り出すのを見て、俺はとうとう舌打ちをした。
「いらねえよ、大げさだな。こんなのかすり傷だろ」
「でも……、あっ」
 額に冷たい手が触れた瞬間、俺はぞわりとして、ほとんど反射的にそれを払い除けた。
 細く柔らかい指先の感触が、美樹を思い起こさせた。大切に思っていた女だ。俺が……死なせた女。
 あれから一年、俺は地べたを這いずり、草の根をかじり、泥水を啜って生きてきた。比喩なんかじゃなく、本当にそうしてきた。復讐のため、生きてそれを成し遂げるために。仇敵である須藤竜蔵とその息のかかった連中を、同じぬかるみに引きずり倒して、這いつくばらせて、あの世の美樹に詫びさせるために。
 美樹の思い出は、俺を憎しみに駆り立てる動力源でありながら、ときに酷く感傷的な気分にさせるものでもあった。だから、
「気安く俺に触るんじゃねえ!」
 誰にも許していない神聖な領域に踏み込まれたように感じて、俺は激昂した。理不尽に怒鳴られたうららは、ぶたれた仔犬のような目をして、少し後退りした。
「ご……ごめん」
 女のおどおどした様子があまりにも哀れに見えて、少し罪悪感を覚えた。これが夢だとすれば、半年一緒に暮らしているという『設定』なんだから、俺に好意を持っているはずなのだ。あまり邪険にするのも寝覚めが良くない。
「……当たっちまって悪かった。まだ記憶が戻らなくてよ、ちっと気が立ってんだ」
 こいつは俺を記憶喪失だと思っているようだから、適当に話を合わせてやろう。
「いいの……」
 するとうららは突然、もつれるように俺の胸にすがりついてきた。俺は困惑した。
「私がここにいるから。パオの傍に、ずっと、いてあげるから。無理に思い出さなくていい……」
 シャツ越しに触れる頬の温かさを感じて、振り払うこともできず、俺はただ立ち尽くしていた。パオってなんだよ。嵯峨薫の名を捨て、『??』を名乗ると決めた時から、俺は一度だって、そんな呼ばれ方するなんざ……想像したこともないのに。


 しばらく一人にしてくれ、と言って部屋に閉じこもった。
 しょぼくれたアパートの外観の割には、センスのいい内装だった。ダークカラーをベースにしたクローゼットとベッド、そしてソファは同じメーカーのもので統一されているようだし、オーディオ機器も立派なものだ。クローゼットの中には、男物のシャツやズボンがきれいにアイロンがけされて仕舞われている。その割には、テレビやパソコンなどの情報端末はなく、灰皿やカレンダーといったツールも、ゴミ箱すらもない。ずいぶんと生活感のない部屋だ。
 俺はポケットの中身を机の上に広げた。財布と煙草、オイルライター、車のカギ、それにさっき拾ったばかりのチャカ。
 この夢は何かの暗示なのか?もしかしたら、竜蔵に繋がる重要な手がかりがあるかもしれない。
 財布を漁ると、興味深いものが出てきた。
「……何だ?これは」
 弐千円、と書かれている紙幣が紛れ込んでいた。表面には、首里城の守礼門が精細なタッチで印刷されている。二千円って、またえらく中途半端な額面だな、子供の玩具かジョークグッズか?いや、それにしては精巧すぎるし、驚いたことに透かしまで入っている。
「つうか、なんで首里城なんだ?」
 まったく理解できない。
 次に、小銭を手のひらに出して眺めた。数種類の硬貨に混じって、これまた違和感のある五百円玉が見つかった。
 その真新しい硬貨は、全体的なデザインや手触りがどこか記憶にあるものと違い、少し黄味がかった光を放っていたのだ。そして何より、その刻印された年号が。
「平成……十二年、だと?」
 四年先だ。
 初めて、背筋に寒気が走った。
 全てのものが異常なほど克明で、夢として片付けるにはリアリティがありすぎる。なんなんだ、この世界は!?


 俺は以前に読んだK・グリムウッドの「リプレイ」を思い出した。主人公の意識が死をきっかけに過去に戻り、何度も人生を繰り返す話だ。
 非科学的ではあるが、それと逆のことが起こっているとは考えられないか?つまり、俺の意識は、未来へ……


「……ねえ」
 ドアの外から、控えめなノックと共に、うららの声がした。
「私、仕事に行ってくるね。お金のことは心配しないで。蓄えがあるし、私ひとりの稼ぎでも、充分アンタを養っていけるからさ。だから……」
 もうじき夜が来る。こんな時間から仕事に出かけると言うのか。訝しんでいると、少し間をおいてうららは続けた。
「だから、お願い。もう二度と、アンタを失いたくないの。私を置いて行かないって約束して」
「……」
 もう、二度と。いきさつは分からないが、かつて辛い別れを経験した女の悲哀が、そこに滲んでいた。美樹を失った自分と重なる。
 俺は口を開きかけたが、迷って、やめにした。できない約束をする主義は無い。
 少しすると、ドアの外の気配は消え、小さな足音が廊下の向こうに去って行った。

 比和出市は、政令指定都市である珠阯レ市の近隣に位置し、そのベッドタウンとして開発が進められていた都市だ。しかし、市議ら数名による莫大な開発費の着服事件が起こり、多くの地域が手つかずのまま、計画は頓挫することになった。俺の担当ではなかったが、珠阯レ地検特捜部が捜査・立件を行った事案だ。

 そういったバックグラウンドのせいか、地域にはあまり活気がなく、どことなく退廃的なムードが漂っている。
 俺は、そのしけた繁華街をうろついていた。
 女の帰りを待って家の中に引きこもっているなんざ、ガラじゃない。何より、俺には果たさなければならない目的がある。憎んでも憎み切れないあの男が……須藤竜蔵が、今、どこでどうしているのか、確かめる必要があった。どこか情報収集に良さそうな手ごろなバーがないか、きょろきょろしている俺の目に、真っ赤なネオンサインが飛び込んできた。
「うん?」
 俺は立ち止まって看板を見上げた。インターネット・カフェ、と書いてある。そのまま解釈するなら、インターネットに接続できるサービスを供しているカフェなのだろう。未来にはなかなか気の利いた店があるもんだ、と思った。


 俺は「過去の自分の意識だけが未来へ来てしまった」ことを、もう、心の中では受け入れていた。この世界を構成している要素は、俺の経験と記憶だけで補える範囲を大きく超えているからだ。
 元々、超常現象とやらに縁がないわけじゃないしな。"あの忌々しい力"……ペルソナとか呼ばれている、肝心な時に役に立たねぇ背後霊が憑いてるこの俺だ。今更、何が起こってもおかしくはない。


 薄暗い店内へ入り、受付で暇そうに本を読んでいる男に話しかけて、ボックスシートを借りた。
 PCを立ち上げて俺は目を疑った。Windows2000ン??
 なんだぁ!?1、2、3……とバージョン名で続いて行くもんだと思っていたが、随分思い切ってネーミングの法則性変えたもんだな、マイクロソフトさんよ……だがまあ、ある意味分かりやすくはある。
 案の定、立ちあがったPCの日付は「二〇〇一年二月十日」を示している。つまり、俺はだいたい五年とちょっと先ぐらいにタイムスリップしてきた計算になる。
 すぐさまインターネットに接続した。端末の処理速度もさることながら、回線もかなりのもんだ。ダイヤルアップが必要ないだと?たかだか五年でこんなに技術革新が行われるとは……
 いや、馬鹿野郎!そんなことはどうでもいいんだ。
 竜蔵に関する情報を集めた俺は、愕然とした。奴は警察内部との癒着が暴かれ、既に政治家として失脚していた。
 しかも、"珠阯レ大災害"と呼ばれる出来事と同時期に、ヤツはその所在自体が不明になっているという。
 そしてその珠阯レ大災害とは、なんと、珠阯レ市が丸ごと上空に持ち上がった衝撃で一区三十六町村がほぼ壊滅し、多数の死者・行方不明者を出した未曽有の天災だというのだ。
 ……にわかには信じがたい事実だった。
 信じられるわけがないだろう?だって、何がどうなれば街が空を飛ぶってんだよ?ジュリーの往年の名曲じゃあるまいし。
 俺は憑りつかれたようにネットの海を彷徨い、様々なニュースや噂によってまことしやかに語られる巨大な陰謀の末路、その欠片を収集した。
 新世塾と警察の繋がり。暴かれて白日の下に晒された人体実験施設と冤罪事件の存在。暗躍する台湾マフィアの影。云豹は……既に死んでいた。そして、竜蔵以外にも複数の関係者が行方不明となっていた……カリスマ女占い師、自衛隊のお偉いさんに、竜蔵の息子である須藤竜也。同じく新世塾と関係の深かった音楽プロデューサーが死体となって発見されたことからも、おそらく、いずれも生きてはいないだろう。
 気が狂いそうだった。
 何か、とてつもなく大きな事件が起きたことは疑いようもなく、そして、それら全てが終わった後なのだ。そのことが、はっきりと感じられた。
 こんなクソッタレな未来ではなく、過去に飛ばして欲しかった。神でも悪魔でもいい、俺を、美樹が殺される前の時間に戻してくれ。それが叶わないなら、せめて、元の時代に戻りたい。俺の手で、復讐を遂げたい。
 だが、どうすれば都合よく戻れるっていうんだ?便利な青いロボットだか、変わり者の科学者だかを探し出して、タイムマシンを貸してもらえとでもいうのか。
 きっとこのまま、この時代で俺は死んでいく。何も果たすことができずに。


 叫びだしたい衝動を抑えて、俺は、ふらふらとした足取りで店を後にした。
「……へへ……滑稽だな。もう存在しない相手に、どうやって復讐しろってんだ……?日本に帰れたってのに、俺は何もできねえ。俺には……やっぱり、何の力もねえんだ。……俺は……無力なんだ」
 乾いた笑いが止まらない。本当は、心が涙を流したがっているような気もするが、俺はとっくにどこかが壊れちまって、正常に機能しなくなっているんだろう。
 頭を垂れてゾンビのように力なく歩いていたら、誰かと肩がぶつかった。
「おいこら、オッサン!どこに目ェつけてんだよっ!」
 巻き舌でまくし立てているのは、チンピラめいた若造だ。視線を上げるや否や、襟首を掴まれてぐいと引きずられた。
「ブツクサ言ってねぇでちゃんと前見て歩けや!肩の骨にヒビ入っちまっただろぉ!?責任取ってもらおうか、あぁ!?」
「ぎゃはは、お前チョー元気いっぱいじゃねーかよぉ」男が引き連れた取り巻き共からの野次だ。
「っせーなー、左肩だけイカレちまったんだよ。無事な方にもの言わせてよぉ、左肩代を取り立てなきゃなんねぇからなぁ」
 銀のピアスが付いた舌を見せびらかしながら、クソ野郎は唇をこれ見よがしに舐めて見せる。
 俺は、心底冷え切った目で奴らを見た。
 こいつは人間のクズだ。俺がかつて、巨悪を裁くことで守り導いてやると誓った、善良な市民ではない。だから制裁を加えても構わない。せめてもの情けだ、一瞬で気を失わせてやろう。
「……!?」
 だが、意に反して、俺のペルソナは顕現しなかった。
 たじろいだ一瞬のうちに、容赦ない拳の一撃が左頬を襲った。獲物がドラッグストアのワゴンに叩きつけられるさまを見て、クズ共が嗤う。
 はずみでポケットの中のチャカがすっ飛んで、ワゴンの下に滑り込んで行くのが見えた。下手に拾おうとして、気付いて騒ぎ立てられでもしたら厄介だ。俺は回収を諦めた。
 俺を殴った奴が、軽い脳震盪を起こしている俺に近づいてきた。
「なあ、治療費。知り合いに医者いっからよ、多分五万で収まると思うんだわ」
「……」
 俺はグラサンを拾ってかけ直し、ポケットから財布を出した。黙って命令に従う様子に気分を良くした男が、髪をかきあげたその瞬間、十円玉が二枚空を切り、その体にめりこんだ。
 男は絶叫しながら地面の上を激しく転がった。
 まだまだ練習中の指弾だが、五メートル先のベニヤ板に穴を開ける程度の威力はある。
 呆気にとられるギャラリーをよそに、俺は立ちあがってそいつに蹴りを入れた。容赦なく。
「俺は今機嫌が悪くてな。降りかかる火の粉を払うだけじゃあ、ちょいと物足りなくてよ」俺はまた笑っていた。「燃え広がりそうな火種は、徹底的に踏み消しておいた方が、世の中のためになるよなぁ?」
「お……お前ら……ビビってんじゃねえ」俺の足の下で、息も絶え絶えに男が叫んだ。「全員で……こいつボコすんだよぉっ……!」


 そこから先は乱闘だった。
 向こうは数人がかりで俺を狙ってくる。さすがに、これほど近距離で囲まれると、指弾で応戦する余裕はなかった。髪を掴まれ、ボディに何発も入れられた。
 ただ、台湾マフィアを相手に文字通りの死闘を繰り広げてきた俺と、平和な町に暮らしていきがってるだけの悪ガキとでは、やはり格が違う。中国武術を応用した回し蹴りで何人かをなぎ倒し、襲ってくる奴を紙一重で躱して、拳を食らわせる。俺の一騎当千ぶりに奴らはおののき、次第に劣勢に立たされていることを理解し始めた。
 そうこうしているうちに、ドラッグストアの店員の通報によって駆けつけたポリ公が俺達の間に割って入った。
「警察だ!おい、やめんか!」
「貴様ら、大人しくしろ!公務執行妨害で逮捕するぞ!」


 かくして、俺は相手方ともども連行された。そして、人生で初めて、ブタ箱にぶち込まれることになってしまった。


 薄暗い留置所で、俺は長い間待たされていた。先にあの男どもの事情聴取が行われているはずだが、あの人数だし、一筋縄で行くような連中とも思えない。それに、現場から発見された例のチャカの出所について問い詰められているはずだ(持ち込んだのは俺だが、どちらかと言えば連中の方が、所有者にふさわしい悪人ヅラをしている)。きっと、まだしばらく時間がかかるだろう。
 痣になった頬を撫でながら、暇を持て余していると、俺の額の血を拭っているうららの顔を思い出した。
 あいつは、もう帰ってきているのだろうか。家の中のどこにも俺がいないことを悲しみ、心配して探し回っているかもしれない。
(……関係ねえさ)
 俺はあいつの知っている「パオ」じゃないし、俺もあいつを知らない。期待されたって、何も返してやれない。これ以上俺に関わらない方が、あいつのためだ。
 俺は誰も救えねぇし、ましてや、幸せになんて……。


「おい、出ろ」
 格子の外から呼ばれて目が覚めた。朝だ。いつの間にか眠っていたらしい。
 俺は警官に連れられ、取調室に入った。そこに座っていたのは、刑事とおぼしきスーツ姿の男だった。神経質そうに角ばった赤いサングラス越しに、鋭い眼光を放っている。
 俺が向かいの椅子にかける前に、男は待ちかねたように立ち上がって、つかつかと詰め寄ってきた。
「貴様……」
 出し抜けに胸倉を掴まれる。またかよ。やれやれ、厄日が続くな。
「こんなところで何をやっている!不良どもと殴り合いの喧嘩とは……そんな下らないことをするために、比和出くんだりまで来たのか!?」
「おいおい、いきなり何すんだ?それ以上は服務規程違反になるぜ?手ェ離せよ」
 男は俺をギリギリと睨みつけながら、放るような無造作さで襟を離した。
「……芹沢君が今どうなっているか知っているのか?意識不明で発見されて、近くの病院に搬送されたんだぞ。一刻も早く彼女のそばに行ってやるんだ。釈放の許可は取ってある」
「芹沢……?」俺は探るようにヤツの目を見た。「一体誰のことだ?」
「こんな時に笑えん冗談はやめろ、嵯峨!」
 今度は本気で突き飛ばされた。壁に手をついて体を支えながら、ヤツを振り仰ぐ。
「……今、俺を嵯峨って呼んだのか?お前……俺を知ってるんだな?」
 男の燃えるような怒りの形相が、困惑に変わっていくのがハッキリと見てとれた。


 病院へ向かうパトカーの中で、男は周防と名乗った。
「そうか……ここ数年の記憶がないのか。芹沢君や僕たちと出会ってからのことは覚えていないわけだな」
 周防は港南署の警部補を務めているという。指名手配犯の足跡を追ってこの比和出市に来ていたが、昨日、調査のために訪問した派出所で、ちょうど市民からの通報を受けるところに立ち会った。意識不明で発見されたという女の名が知人と同じだったので、まさかと思い、急いで病院へ足を運んだのだという。
「その芹沢って奴は、俺のなんなんだ?」
「お前にとって彼女は……大切なパートナーと言うべき人だ」
「パートナー……」
「そうだ。思い出せないか?名は、うららだ」
 うららだと?
 俺は驚き、目を見開いた。
「うららが搬送されたってのか!?いつだ!?」
「ど、どうしたんだ?急に。名前で思い出したのか?」その剣幕に怯んだ周防は、サングラスを指で押し上げながら答えた。「昨日の夕方頃だ。道路の上で倒れているところを、近隣住民に発見された」
 俺は戦慄した。仕事に行くと言って家を出た直後、あいつの身に何が起こったのか。
「頭と体の一部に打撲傷があるようだが、幸い命に別状はない。しかし、意識が戻らないということだ。脳に何らかの影響が及んでいるのかもしれない……嵯峨?」
 崖の上でうららと俺を銃で襲ったというターゲットに、俺は思いを巡らせていた。そいつが、うららを殺そうとしたのだろうか?落とした銃を取り返しにきたのか、それとも、自分の身辺を嗅ぎまわっている邪魔な人間を消そうとしたのか。
 くそっ!俺がついていれば、こんな事には……
 ……ならなかった、なんて言えるわけねえよな。美樹を殺され、おめおめと一人生き残った俺なんかがいたって、誰かを守ることなんてできないだろうさ。
 それに、守らなきゃいけない相手ってわけでもない。俺にとっては、一度会っただけの、ただの顔見知りだしな。
「大丈夫だ。きっと、すぐ回復するさ」
 うららの身を案じていると勘違いしたらしい周防が、俯いた俺の肩を力強く叩いた。そんなことを考えているんじゃねえよ、とは、言えなかった。なんとなくだが。


 面会時間は十一時からだ。少し早く到着した俺たちに、受付の女は、淡々とした口調で「時間までそちらのロビーでお待ちください」と告げた。
 長椅子に腰かけて床を眺めていると、ふいに周防が口を開いた。
「一度、パトラ系を試してみてもいいかもしれんな」
「何だと?」
「パトラだよ。魔法の。昏睡しているということは、睡眠状態と変わらんのだろう?試す価値はある」
「……お前さん、ペルソナ使いだったのか」
 旧知の仲というのは、つまり、共に戦った仲、ということだったらしい。
「まあ、やってみりゃいいんじゃねえか」
「おい何だ、その無関心さは。彼女のために何かしてやりたいとは思わんのか?」
 憤慨した口調で責めてくる周防。俺は密かにため息を漏らす。こういうステレオタイプな堅物は苦手なんだよなぁ。
「俺には使えねえから、どうしようもねえんだよ。……というか、ペルソナ自体が出ねぇんだ」
 拘留されてからも何度か試したが、まったく姿を現す気配がない。
「そうなのか?」周防は神妙な顔をした。「記憶障害の影響だろうか」
 肝心な時に役に立たねえと、疎ましく思っていた。こんな力、何になるっていうんだ。下らねえ。そう蔑んでいた。
「愛想を尽かされちまったのかもな」我知らず、苦い笑みが浮かんだ。
「……」
 周防は何も言わず、思案に沈むような顔で、手の中の鍵をもてあそび始めた。
 やがて病棟入り口の自動ドアが開き、中から出てきたナースがよく通る声を響かせた。
「面会お待ちの方はこちらへどうぞー」


 俺達はうららの病室に足を踏み入れた。
 風通しの良い大部屋を、蛇腹のカーテンが四つに仕切っている。その窓側のカーテンを、周防が軽く引いて開けた。
 明るい光が白々と照らすベッドの枕元に『芹沢うらら』の名が記されている。ベッド脇のスタンドに吊るされた点滴液から管が伸びて、力なく布団に埋もれた細い腕に繋がっているのが見えた。
「芹沢君……また見舞いに来たよ。次には嵯峨を連れてくると、昨日、約束したからね」
 返事はない。
「さあ。お前もここへ来て、彼女の手を……」言いかけて、周防は口をつぐんだ。


 俺は、呆然とその場に立ち尽くし、ベッドの上の女を凝視していた。
 なぜなら、そこには俺の知らない人物が横たえられていたからだ。


 どういうことだ、これは……


 この女は、一体…… 誰 な ん だ ?

 しんと静まり返った部屋に、時計の針の音が響いていた。


 黒い革張りのソファ、ガラステーブル、事務机、キャビネット。小さな事務所だが、綺麗に片付いた機能的な空間だ。
 キャビネットの上に立てられたファイルを手に取り、パラパラと中身を眺める。調査記録が仔細にまとめられたルーズリーフに、カラフルな付箋が何枚か貼られていた。『ピーダイ中川店にて目撃証言アリ』『入館料も実費請求!』
 手書きの文字は全て、少し丸みを帯びた均一なサイズで書かれている。どう見ても俺のものではない、俺はハッキリ言って字が汚い方だ。
 次のファイルには、領収書を貼った紙が綴られていた。貼り方のバランスと法則性から、それを手がけた人間の几帳面な性格が窺える。
 どうやらうららは、経理事務・クライアントの一次対応・その他雑用を兼ねるといったポジションに就いているようだ。


 ……俺は、病室のベッドの上で、意識の戻らないまま静かに呼吸だけを繰り返す女の姿を思い出していた。


 目元のホクロと、蒼白な顔を縁取った燃えるような赤い髪が印象的だ。昨日俺が出会った「うらら」を名乗る女は、ほとんどオレンジ色に近い明るい茶髪をしていた。もちろん、顔も全く違う。
「こいつが……うららだってのか?俺の認識と全然違うんだが」
 疑念の目を向けている俺に、周防は携帯電話を取り出して、証拠の写真データを次々と見せた。
 女二人で顔を寄せ合ってピースし、周りにカラフルな文字で『うらら?マーヤ』と書かれているもの。飲み屋で向かいの席からこちらに笑いかけている赤髪の女と、隣に座って咥え煙草でそれを見ている俺。『祝ご開業 株式会社南条ホールディングス』『開業御祝 葛葉探偵事務所』と記された立派な観葉植物や祝い花の前に、並んで立っている赤髪の女と俺。
「納得したか?」
「まあな」
 ここまでされては、信じるしかない。未来の俺と共に仕事をしてきたのは、この赤髪の方のうららだったのか。
 周防は小さく頷いて、そっと魔法をかけ始めた。だが、何回試しても反応はなかった。
「駄目か……」 
「……なあ、確認しておきたいんだが。本物のうららってことは、あれだ。その……俺はコイツとデキてんのか?」
 周防は激しく咳き込んだ。
「おいうるせえな、病室だぞ」俺は慌てて、しつこくゲホゲホ言っている周防を追い立てるように廊下に出た。「馬鹿野郎。他の患者の迷惑になるだろうが」
「す、すまない。その、君たちの関係だが……僕の知る限りではまだ、そういった……間柄ではないはずだ」
「じゃあ俺には他に女がいたか?一緒に暮らしてるとか」
「いや、そのような浮いた話は聞いたことがないが」サングラスを軽く押し上げる周防。
 どういうことだ?
 偽うららの方は、俺と一緒に人探しの仕事をしていて、半年前から同棲してると言っていた。
 俺は、昨日からの経緯や謎の女について、ひとしきり周防に語って聞かせた。信じられない、といった表情でヤツは首を振った。
「そんなことがあったのか……一体、その女は何者なんだろう。何のために、芹沢君を騙ったのだろうか?」
「何者と言えば、俺と偽うららを襲った犯人がいるはずだが、こいつの正体も分からねえ。本物のうららが意識を失って倒れていたことと、関係があるのかね」
「そもそも嵯峨、お前達はなぜ比和出市に来た?人探しか?それとも、依頼人と会うためか?」
 はたと思い出したように周防は言った。
「全くわからねえ。意識が戻った時、財布と煙草しか持ってなかったからな」
「経緯を調べていけば、この事件に関与する人物像が浮かび上がってくるのではないか?」
 確かに一理あると思った。俺に身辺を嗅ぎまわられることで不利益を被る者の存在があるなら、そいつに襲われたとしてもおかしくない。
 周防も頷いた。
「僕は引き続き別件の捜査を続けなければならないが、お前は一度、珠阯レの事務所に戻って調べてみてくれ。病院で預かっている彼女の所持品の中に、おそらく、事務所の鍵もあるはずだ。渡してもらえるよう僕から口添えしよう」


 そうして、俺は一人、懐かしき我が故郷へと帰ってきた。
 円型をした都市部の外周が、巨大なドーナツ型の湾になっているのを、その上にかかった長い橋を渡るタクシーの窓から、何とも言えない思いで眺めた。ただ、街の中は予想に反して正常に機能しており、大きな爪痕は見られない。
 人智を超えた大災害の後、珠阯レ市は約一年でここまでのインフラ整備を成し遂げたという。いざって時の人間たちのしたたかさや底力ってのは、案外すげえもんなのかもしれないな。


 時計の音だけが響くオフィスで、俺は「対応中案件」と書かれたファイルを開き、ページをめくっていた。
 たった二人で回している割には結構繁盛しているらしく、十件以上の依頼を同時進行していることに驚いた。調査依頼書は依頼人の直筆だが、欄外にはうららの字で、ファーストコンタクトがメール・電話のどちらだったのか、外見や口調といった特徴などが書き加えられている。おそらく、顧客を取り違えないための工夫だろう。
 まめな女だ。
 ……美樹も、そうだった。コツコツと積み上げる努力家で、細かいところに目の届く女だった。
 自分にあてがわれた検事室で、初めて彼女に引き合わされた時は、正直、こんな細腕で俺の補佐が務まるのかと侮っていた。実績がないとはいえ、泣く子も黙るキャリア組で、期待の新人とも噂されている自分に、同年代でしかも女の事務官が付くとは思っていなかったからだ。
 だが、俺は美樹の仕事ぶりを目の当たりにし、その考えを改めざるを得なかった。普段は柔和だが、大物相手の聞き込みでも一切怖じることはなく、事情聴取の際の反応からごく僅かな矛盾を見つけ出し、押収物の調査では綿密に隠ぺい工作された痕跡に気付く。その機転が、捜査の新たな糸口となることもしばしばあった。俺は立て続けに手柄を挙げ、新進気鋭の敏腕検事という二つ名を欲しいままにしたが、それは美樹とのツーマンセルだったからこそ為し得たことだ。俺達は最強のコンビだった。
 若いながらも、実務知識は特捜部の資料課に配属されても即戦力になるレベルだと評されていた美樹。あと数年も勤めれば、試験を経て副検事になる道もあっただろう。
 俺がそれを閉ざしたんだ。永遠に。
 なのに、たった数年でそのことを忘れ去り、新たな相棒を迎えているなんて、愚かにもほどがある。


 いらつきを抑えられず、ほとんど頭に入ってこないまま読み進めていたが、俺の視線はふいにある一点で止まった。
 『比和出市稲見町大山二丁目……』
 ハッとして依頼人の名を見る。女だ。『メールにて依頼あり、面談なし・電話で受諾』『着手金済 報告時に自宅訪問、報酬は現金受け取り』と欄外に書かれていた。
 現在一人暮らし。同棲していたが外出したきり行方知れずになった男を探してほしい、という依頼内容だ。
 ドクン、と鼓動が跳ねた。急いでページをめくる。
 調査記録には、男の失踪前の経歴や周囲の評判などが書き連ねられていた。好色家でだらしがなく、ろくに働きもせずに複数の女にたかって暮らしている、いわゆるヒモ男だったそうだ。まとまった金が必要になると、裏で運び屋をやっていたという証言もあった。行方をくらます直前、やくざ者の囲われ女に手を出してしまい、恐ろしくなって親しい知人に相談していたことが分かっている。
 そして、うららが身元不明の死亡者リストと照らし合わせた結果、その男本人とおぼしき人物が見つかったというのだ。相談所に開示してもらった遺体の写真は依頼人から預かったものと比べても共通点が多いし、死因となったのが腹部の銃創による出血だというのも、いかにもじゃねえか。それに加えて、遺品には依頼人と揃いの指輪があったというから、ほぼ確定だろう。
 調査結果は既に出ている。そして報告のための訪問予定日は……昨日だ。
「繋がったな……」
 すぐさま、周防に電話をかけた。
「周防だが、嵯峨か?」奴はワンコールで出た。やや緊張を感じさせる固い声だ。
「ああ、俺だ。それらしい人物が浮かんできたぜ。依頼人の女が稲見町に住んでて、調査報告と報酬受取のために昨日会う予定だった」
「そうか……」少し間があった。「……その女性の名だが、××××という名前ではないか?」
 俺はギョッとして、手元のファイルに視線を走らせた。その通りだ。
「おい、なんでお前がそれを知って……まさか、このグラサンに隠しカメラでも仕込まれてるんじゃねえだろうな?」
「馬鹿を言え。いいか。落ち着いて聞くんだ。彼女は……先ほど、病院に搬送された」
「……な、何だと?」
「芹沢君と同じ場所で発見された。崖の上から転落し、コンクリートで覆われた斜面に激突しながら、下の道路に落下したらしい。出血が酷く、意識不明の重体だ」
「はぁ!?」
 偽うららの正体に目星が付いたと思ったら、うららと同じ場所で意識不明で発見されただと?
 わけがわからねえ!一体全体、どうなってるってんだよ、クソッタレ!!


 俺は急いで比和出市に戻った。
 まったく、この時代に飛ばされてからずっと目のまわるような展開で、息をつく暇もない。神だか悪魔だか知らないが、よほど底意地の悪い奴に目を付けられてしまったらしいな、俺は。


 うららと同じ病院に搬送された「偽うらら」は、集中治療室に入れられ、医師たちによる救命処置が続けられていた。
 駆けつけてきた周防に説明を求めると、難しい顔でゆっくりと語った。
「昨日も話したが……僕は指名手配犯の足取りを追っている。まだ消息は掴めていない。少しでも手がかりが必要なんだ。ヤツが殺した相手の中に素性の分からない遺体があり、警察はそちらの方向からも捜査を進めていた」ちらり、と集中治療室のドアに視線を走らせる。「彼女は、被害者に関わりがあると思われる人物として、参考人になる予定だった」
 蓋を開けてみりゃ、周防もこの一連の事件の関係者だったわけか。
「チッ……何なんだ、この事件はよ。結局、二人のうららに危害を加えたのは、その指名手配犯ってオチか?そんな単純な話とも思えねえが」
「なあ、嵯峨。こんな時に言うのもなんだが……ずっと考えていたことがある」
 周防が重い口を開いた。
「意識の戻らない芹沢君に、ペルソナの力を失ったお前。そこには、何か関係があるような気がしてならないんだ」
「……俺にどうしろってんだ?」
「芹沢君を連れて、ベルベットルームへ行ってみないか?ひょっとしたら、その謎が、事件の真相に繋がっているかもしれない」


 俺は意識のないうららを横抱きにして、できるだけ静かに病室を出た。うまく病院の外に連れ出せるだろうか?もし、鉢合わせたナースどもが不審がって邪魔立てするようなら、強行突破するしかねえな。
「……そうしていると、あの時のことを思い出すな」感慨深そうに呟く周防。
「あの時?」
「JOKER化した彼女が、戦いの後に気を失った時も、お前が抱えて……いや。今は思い出話をしている時ではないな。やめておこう」
 騒ぎにならないように、周防が辺りを警戒しながら先導する。俺たちは廊下を急いで進んだ。
 階段を下りてすぐ、目的のものに行き当たった。一般人には壁としか見えないはずのその場所に、ベルベットルームへの扉が青白く光っている。
「ってオイ、ここかよ!外じゃねえのかよ!」
「昨日、院長室を訪ねる際に見つけたんだが、まさか役に立つとはな」
 あちこちに存在しているのは分かっちゃいるが、病院の中にまであるって、コンビニ並みの普及率じゃねえのか?こうもアッサリだと拍子抜けというか、有り難みが薄いぞ。俺の決意は何だったんだ。


 気を取り直して内部へ足を進めると、厳かな歌声とピアノの音に出迎えられた。
「ようこそ、ベルベットルームへ……いかがなされましたかな?」
 ぎょろりとした目でこちらを見るこの部屋の主、イゴールに、腕の中で眠っている女を示して見せた。その動きに呼応するように周防が説明する。
「芹沢君が意識を失ったまま回復しないんだ。魔法も効かない。そして同時期に嵯峨は記憶の一部を失い、ペルソナが呼び出せなくなった」
 俺は、この現象を記憶喪失ではなくタイムリープだと認識しているんだが、話がややこしくなりそうなので、黙っていた。
「おや、これはこれは。珍しい現象が起こっているようですな」
 イゴールはこめかみに人差し指を当て、器用に片眉をあげた。
「ご存じの通り、人は多くの仮面すなわちペルソナを心の中に持っておりますが、それを具象化できるのがペルソナ使いというわけです。ですが元来、人の心というものは非常に脆く繊細にできております。いかなペルソナ使いといえど、微小な異物が紛れ込んだだけで正しく機能しなくなってしまうことがあるのですよ」
 両の手を組み合わせて、血走った目をぐるりと動かしてみせるイゴール。
「そう、砂を噛んでしまった小さな小さな歯車のように」
 この謎めいた男は相変わらずのようだ。紳士的な態度と、道化人形のように不気味で掴みどころがない存在感がミスマッチだ。
「……で、こいつを目覚めさせることはできるのか?」
「試してみましょう。しばしお待ちを」
 イゴールがどこからか取り出した黒い受話器のようなものに顔を近付け、俺達には聞き取れない言語で、まじないのような何かを呟く。
 突然、うららの全身から光が溢れだした。まるで、皮膚の内に埋め込まれた電飾から輝きが漏れているような、不可思議な現象だった。やがて光は徐々に中心に収束し、ふわりとうららの身体を離れた。
 吸い寄せられるようにイゴールの前へ行き、しばし浮遊していた光の球は、カードの形に変容しながらくるくると回っていたが、やがてその枯れ木めいて節くれだった指の中に収まった。
「さて、いかがですかな?」
 俺はうららを覗き込んだ。
「……」
 その睫毛がゆっくりと持ち上がる……。
 俺と周防は、思わず顔を見合わせた。ヤツが今まで顔面に貼り付けていた厳しい表情はようやく綻んで、清々しい笑顔が現れた。それが妙に印象的だった。


 イゴールが椅子から立ち上がり、カードを高々と掲げた。
「……それでは、こちらは貴方にお返し致しましょう」
 言い終わるや否や、その手を離れたカードが、俺を目がけてまっすぐ飛んで来た。俺はぎょっとした。
 ――直撃する!
 思わず身構える俺の目の前で、それは、流線型の幻影のようなものに姿を変えて、俺の中に流れ込んできた。
 映像を伴った衝撃、とでも言えばいいだろうか。全身の組織を全て再構築されながら、その細胞の中に、ノイズ混じりのヴィジョンが高速で刷り込まれていくような感覚だった。


(……う……ああ……!!)


 ……遠い記憶、途切れ途切れの波の音、揺れるコンテナの中で、俺は荷物に紛れて身を屈めている。もうすぐだ、もうすぐ日本に帰れる。そうしたら手が届く。竜蔵の高笑いする顔が、すぐそこに迫って見えた。手を伸ばして掴もうとすると、ゆらり、揺らめいて炎の中に消える。燃え尽きたエンブレムが灰皿の中に燻った。テーブルの向こうで儚い微笑みを浮かべる若く美しい女。そのシルエットが背後から引き裂かれた。だって、マーヤが、私にないもの全部持ってるから。青白い顔ののっぺらぼうが泣いている。
 よく見ればのっぺらぼうは次々と暗闇の底から湧いてくる、二人、三人、四人。倒しても倒しても、きりがない。穢れ、影、罪、そんなものに勝てるのか?世の中には、掃いて捨てるほど溢れ返っているじゃないか。倒しても倒しても、倒しても倒しても倒しても……。
 気が付けば、足元には云豹の死体が転がっている。島津、富樫らの骸に折り重なるように倒れている。奪った報いに苦しみながら逝った男へ、冤罪によって多くを失わされた男が、敬礼を贈る。こんな世の中、生きていくにゃ痛みが多すぎる。それでもこの足は止まらない、走って走って、いつの間にか随分遠くまで来た。赤い少年が辛そうな横顔を見せている。なぜ来たんだ。これ以上関わらないでくれ。
 滅びの夢の断片が煌めいて、世界は嘆きの声を上げている。薄汚れた竜蔵の断末魔を呑み込んで、ついに方舟は地上から切り離された。俺たちは、悪意の手のひらの上を駆けずり回る。迷い傷つきながらも、逃げずに立ち向かう、それぞれの過去を受け入れて、闇を切り裂いて、……未来へ。


 俺の頬を涙が伝っていた。
 何年ぶりだ?涙なんて、とうに涸れ果てて無くなったと思っていた。
「パオ……泣いてるの……?」
 抱えられたままのうららがそっと手を上げて、頬を伝う雫に触れた。俺は微かに笑った。間違いなく、こいつは今の俺にとって唯一無二の、相棒だ。
 そして……俺はタイムスリップなんかしていない。今、全てを思い出した。

 あの女に出迎えられた時のことも、今では、はっきりと思い出せる。愛する男を失って孤独に過ごす生活に、疲れ果てた顔をしてはいるが、その眼には希望が宿っていた。
「こんにちは。今朝ご連絡しました芹沢うららです。××××さんご本人ですか?」
「そうよ」
 玄関を開けて門のところまで出てきた女は、ポケットの財布から免許証を出して俺たちに見せた。
「入ってちょうだい」
 招き入れる声には、不安だけでなく、ほんの少しの喜悦が混じっていた。まるで、無人島の浜辺に流れ着いた小瓶を拾う漂流者のように。
 俺は密かに眉をしかめた。その小瓶に入っているものが毒薬だということを、俺たちは知っている。彼女の探し人が既にこの世にいないことを、これから、告げなければならない。会いたくて探している依頼者に、もうその願いは永遠に叶わないのだという事実を突き付けなければならない。因果な商売だ。
 難しい顔をしながら靴を脱ぎ終わると、うららに肩を叩かれた。
「パオ」
「あん?」
「はいコレ。アンタ、私に預けたっきりだったでしょ」
 報告書の入ったブリーフケースを渡された。そういえば、車に乗る前に持たせて、それからうららがずっと抱えていた。
 手持ち無沙汰な俺は、しゃがんでブーツを脱いでいる横顔を眺めた。
――きっと生きてるって信じてる人に、もう亡くなってることを伝えなきゃいけないのって、辛すぎるよ。このまま、見つからなかったってことにできたらいいのにね。そりゃあ、成功報酬は貰えないけど。どこかで元気に暮らしているかも、って思いながら、やり過ごしていけるじゃん?
 仕事を始めたころ、そうこぼしていたのを思い出した。
 依頼人は、真実を知る義務と権利がある。それを俺たちの一存で隠匿するなんて、許されることじゃねぇ。そう一蹴したら、そりゃ分かってるけどさ、割り切れないよねぇ……とため息をついた。
 だが、今、その顔に迷いはなかった。こいつは、依頼者の心と寄り添いながら、共に乗り越えてきた。
 強くなったな、と思う。
 さりげなく手を差し伸べてやると、少し驚いたように目を見開いて、微笑みながら手を取り、立ちあがった。「サンキュー、パオ」


 案内されたリビングで、俺たちは調査結果をすべて伝えた。放心していた依頼人はぽつりと呟いた。
「……嘘……でしょ?」
 想定していた反応だ。
「気をしっかり持てよ。そいつは最期の時まで、アンタの指輪を持っていたんだ。それは、アンタを大切に思っていたからこそじゃねぇのか?」
 しょせん、ジゴロで通っていた男だ。この女からの贈り物を身に着けていたのも、おそらく、どこかで金に換えようと考えてのことだろう。俺は気休めだと分かっていながら、しかし、そう口にせずにはいられなかった。
「彼はきっと、あなたを巻き込みたくなくて、何も言わずに去って行ったんじゃないかな」
 横から援護射撃が入った。うららは立ちあがって女の傍に行き、その肩を優しく抱いた。
「彼の分まで、幸せにならなくちゃ。どんなに辛くたってさ。それが遺された者の役割なんだから」
「嘘……嘘よ……こんなことって……」
 しかし、その後の女の行動は、俺が全く予想していなかったものだった。
 女は突如癇癪を起こしたように激しい勢いで立ち上がり、部屋を飛び出していった。
「あ……ちょっと!」
 呆気にとられていると玄関のドアの音がして、俺たちも慌てて駆け出した。ブーツを履くのに手間取っているうららを置いて、俺は女の後を追った。


 家の裏手から続く山道を辿り、林を抜けると、少し開けた高台に出た。女は、柵のない崖の端で立ち止まった。
 俺が近付くと、女は半分だけ振り返って言った。
「……ここ、彼との思い出の場所なの。星が綺麗に見えるのよ」女の目から涙が流れ落ちた。「死ぬならここがいいって思ってた」
「おい……妙なことを考えるんじゃねぇぞ」俺はじりじりと摺り足で近寄ろうとした。「そのまま動くな」
「近寄らないで!!」
 女は叫び、何かを取り出してこちらに向けた。見間違いでもなんでもなく、そいつは本物のチャカだった。ヒモ男は裏の世界とも繋がっていたというから、おそらくそのルートで手に入れたものだろう。
 エモノで脅さずとも、本当に飛び降りたいならすぐに飛び降りるだろうに、そうしないのは、何らかの意味があるはずだ。心のどこかで、思いとどまるように必死で説得されたがっているのではないだろうか。それはつまり、生への執着の証明でもある。
「そんなもので俺の足を止められるとでも思ってるのか?」
 脅しに屈さず、普通に歩いて近付いてくる俺を見て、女はかなりビビったようだった。
「こ……来ないで!偽物なんかじゃない、本物の銃よ!?や、やだ……イヤアァァァッ!!」
 半狂乱状態になった女は、ガクガクする手で銃を発射した。
 そんなへっぴり腰で当たるわけがねぇ、と高を括っていたが、弾は偶然にも俺の頭に命中した。痛みと衝撃に、一瞬気が遠くなる。
「ぐあっ……!!」
 幸いにも弾道は脳から逸れていて、頭骨の表面を少し抉っただけで済んだらしい。噴き出した血が顔に垂れてきた。傷を塞がなければ。すぐさま回復魔法を唱え始める。
「き……キャーッ!!」
 俺は、片膝をついた状態で目撃した。女が俺の血を見て悲鳴を上げると同時に、背後の雑木林から、物凄いスピードでうららが飛び出したのを!
 あっという間に女の間合いに飛び込み、回り込んで羽交い締めにする。
「アンタねぇ!!自分が何やってるか分かってんの!?」
「嫌っ……離して!あの人のところに行きたいのよぉ!!」
「そんなワガママに、他人を巻き込んでもいいと思ってんの!?いい加減にっ……」
 女は全力でもがいた。体を左右に捩るように暴れるので、さしものうららも押さえきれずに手を離した。女は反動で地面に転がり、ゴッ、と激しく何かにぶつかる音がした。その手からすっぽ抜けたチャカが、俺の近くまで飛んで来た。
 そして、振り切られた勢いで、うららは崖から投げ出された。
「あ」という形に開かれた唇が、大きく見開かれた目が、何かに掴まろうとして宙に伸ばされた手が、スローモーションで一コマずつ、俺の目に焼きついた。
 落ちる。
 俺は声の限りに叫んだ。
 無我夢中でペルソナを開放し、アイツを助けたいと強く念じた。もう、二度と繰り返すわけにはいかなかった。俺はどうなってもいい。だから、アイツを!!

 ……俺が思い出したのはここまでだ。


 目が覚めた後、あの女はうららの名を騙り、俺に「もうどこにも行かないで」と言った。
 失った愛の傷痕を埋めるために、俺を身代わり人形にしようとしたのか。それとも、傷を負わせて記憶を失わせた罪を、償うためか。それすら叶わなかったから、結局、思い出の崖から身を投げたということなのだろうか。
 今となっては、知りようがない。あの女はもう、誰の手も届かない所へ行ってしまった。


「馬鹿な女だ。せっかく人様に体を張って守ってもらった命を、無駄にしちまうなんてよ」
 俺はベッド脇の椅子に座って、ライターを弄んでいた。ため息を煙に隠して一緒に吐き出したいところだが、あいにく、病院内は禁煙だ。
「亡くなった人を悪く言うもんじゃない」
 周防がたしなめる。侮蔑からではなく、憐れみをこめて俺が言っていることを知りながら、その上でこういう台詞を吐くのだ。周防は、そういう男だ。
「ちゃんとお説教、してやりたかったな」
 ベッドに半身を起こして座っているうららが、ぽつりと呟いた。
「それに、ろくでもない男に騙されてたモン同士、分かってあげられたと思うのよねぇ」
 言葉に、どうしようもないほどの寂しさが滲んでいた。だから、俺は大げさに肩をすくめて茶化してみせた。
「同病相憐れむ……か?ったく、そんな負け犬同士の傷の舐めあい、あの女が素直に喜んだとは思えねぇぜ」
「ちょっ……誰が負け犬だっての!」
 拳を振り上げるうらら。またしても周防がたしなめ役に回る。
「ま、まあまあ、落ち着きたまえ。……しかし、芹沢君が無事に回復して本当に良かった。一時はどうなることかと思ったよ」
「ゴメンよ。心配かけて」うららは、へにゃりと笑った。「まあ、ちゃんと検査受けないと、まだ退院はできないんだけどさ」
「君の意識が戻らなかったのはペルソナの影響だった、なんて、医者に説明しても信じないだろうからね」
 周防は俺を見た。
 イゴールは語らなかったが、うららの中から取り出されたのは、確かに俺のペルソナだった。
「……あのね。崖から落ちた時のことなんだけど」
 睫毛を伏せたうららが、ポツリポツリと語り始めた。
「ああミスったな、私ここで死んじゃうのかな、って思ったんだ。死ぬ時って、走馬灯モード入るってよく言うじゃん?でもね、私の頭によぎったのってさ、昔の思い出とかじゃなかったんだ。あー、最期にアレ食べたかったな、コレやりたかったな。明日は洗濯しようと思ってたのにな。あ、そういやマーヤにスカート貸しっぱじゃん、まだあんま着てないおニューの服だったのに。とか、そんなしょーもないことばっか、浮かんできてた。そしたらさ……」
 うららは、俺の目をじっと見た。
「急に、アンタの匂いに包まれたような気がして。ふと見たら、アンタのプロメテウスが光って浮かんでた。そのあと、私を腕に抱いたまま落ちながら、何回か斜面にぶつかって、あの子、砕けて消えちゃったんだ」
「…………」
 俺は何も言えなかった。
「その時、粉々になったペルソナの欠片が、君の心に紛れ込んだんだな。嵯峨は記憶の一部を失い、君は軽傷で済んだ……」
 周防に頷き返したうららが、静かに瞼を上げる。涙をいっぱいにたたえた瞳が水面のように揺れて、窓の光を映していた。
「アンタが……助けてくれたのよ……」
 俺は黙って、自分の掌を見た。かつて、美樹を守れなかった力だと疎んだ。それは、自分の心の弱さを認めることができなかったが故の、過ちだった。
 だが、その力で、俺は今度こそ、大切なものを守ることができた……。
 そっと俺の指に指を絡めて、うららは祈るように唇を押し当てた。涙の雫が伝って、二人の手をあたたかく濡らした。本当に救われたのは、俺の方だ。胸が苦しくなり、目を細めた。
 しばらくそうしていると、
「あー……んんっ、ゴホン」
 気まずそうな咳払いが割って入った。見ると、周防は明後日の方向を向いて立っている。
「では、僕はこれで失礼する。捜査に戻り、全力でヤツを追う……彼女のためにも、な」
 踵を返して颯爽と病室を出ていく後ろ姿に、声をかけた。
「周防」
 奴は立ち止まり、振り返った。俺は唇の端をニヤリと上げてみせた。「さっさとホシ挙げてよ……終わったら、また飲みに行こうや」
「もちろん、パオの奢りでね」うららがすかさず軽口を叩き、涙を拭きながら笑った。
 ありがとう、世話になった。そんな言葉はしゃらくさくて言えやしねぇ。だから、俺たちには、これぐらいが丁度いいんだ。そうだろう?
 それを証明するかのように、周防も力強い笑みを浮かべて、ああ、と応えた。


「ねえ」
 周防の姿が見えなくなると、うららは急にそわそわし始めた。
「私のポーチ、車の中に置いてるのよ。悪いんだけどさ、ちょっとあれ取ってきてくれない?」
「はぁ?何だよ、急に。煙草吸いに行きてぇのか?めんどくせぇからこれで我慢しろよ」
 自分の煙草を取り出そうとしてポケットに手を突っ込むと、うららは掛け布団を引っ張り上げ、顔の下半分を隠した。
「いや、それもあるけどさ。ほらこれ、救急車で運ばれた時、目ぇ以外ほとんどメイク落とされちゃってるし……とどめに泣いちゃったし」
「今更、化粧直してどうすんだよ」
「だって気になるのよぅ」
「周防は帰っちまったし、見舞いに来そうな知り合いにも連絡行ってねぇんだろ?俺しかいねぇんだから、気にするこたぁねぇさ」
「……からでしょ」布団の影でぼそり、と呟く。
「あぁ?」
「何でもないわよ!!このトーヘンボク!!」
 無防備な上腕に、暴力女の鉄拳が飛んできた。
「痛ぇ!!何しやがる!」
 俺が痛がっているのを尻目に、肩まで布団に埋もれたまま、ふん、と唇を尖らせてそっぽを向いている。どうも機嫌を損ねたらしい。まったく……さっきのしおらしさはどこへ行ったんだ?まあ、これぐらい跳ねっ返りな方が、こいつらしいか。
 中身はいつも通りだが、あのけばけばしい紫色の口紅を付けていないうららは、普段のはすっぱな印象が少し和らいで見える気がする。下ろした髪とのコンビネーションが珍しく、俺はつい無遠慮にじろじろと眺めてしまった。
「な、何よぅ、文句あんの?」眉をしかめて睨んでくる。
「そいつぁ逆だな。特に文句がねぇから見てるんだぜ」
「え?」俺の言葉の意味を理解できなかったらしく、うららは怪訝な顔をした。「それってどういう、」
 素肌の頬に触れると、うららは驚いて身を竦めた。柔らかく、滑らかで、少しだけひんやりした手触りだ。
 まごついたように視線をそらして、大人しくされるがままになっている。
「……うらら」
 名を呼ぶとその目が見開かれた。
「はっ?パ、パオ、どうしちゃったの?なんか変なものでも食べた?」
 急に呼び方が変わって不審に思うのはわかるが、失礼にも程があるだろ!
「うるせぇ。……あの女が名乗ってから、ずっとそう呼んできたからな。本物相手だってのに、今更変えるのもなんか癪だと思ってよ」
「……」
 うららは少しもじもじして、俺のジャケットの裾を引っ張った。
「ね、もっと呼んでよ」
「……なんだよ」
「呼んでほしいのよ……」
 同室の患者を気にするような素振りで、声をひそめて囁く。
 阿呆な奴だな。焦らなくたって、これから先ずっと、飽きるほど呼ばれるってのによ。俺は僅かに開いたままのカーテンを引いて、誰の目にも触れないようにした。
「うらら……」
「……もっと」
「……うらら……」
 互いにしか聞き取れないほど小さな囁きを交わしながら、身体が近付く。頬を撫で、包み込むと、陶酔したように瞼が閉じた。俺の胸に手を当てて、委ねられたその上半身の重さが心地好かった。
 腰に手を回し、柔らかな掛布団ごと優しく引き寄せると、前髪が軽く擦れ合って、吐息が甘く混じり合った。濡れた赤いくちびるが、花の綻ぶようにうっすらと開き、俺は吸い寄せられるように


「芹沢さーん、問診のお時間ですよぉー」


 ナースの明るい声が病室に響き渡った。
 俺は一瞬でベッドの足元あたりまで飛び退いた。スクカジャも形無しのスピードだった。
 さっさとカーテンを開けて入ってきたナースが「失礼しますねぇ」と、直立不動状態の俺に向かって軽く頭を下げる。
「芹沢さん、ホントにもうすっかり目が覚めたのね。良かったですねえ。お加減どうですか?あらら、ちょっとお顔が赤いかな?急に動いたから、疲れて熱が出ちゃったのかしらねぇ」
「あは、そ、そうかも……?」しどろもどろになりながら愛想笑いを浮かべている。
「まだちょっと安静にしとかなきゃですね。じゃあ、面会はこのへんで」
 有無を言わさぬ笑顔でナースに追い出される俺を、うららが泣きそうな顔で見ていた。
 やっぱり俺は、底意地の悪い悪魔かなんかに憑りつかれてるのかもしれねぇ。
 ……俺の受難は、もう少しだけ続きそうだった。