うららの男

 瑞々しいあんず色のカクテルがバーカウンターの照明に揺れて、つい一瞬、気を取られる。
「何だって?」
 思わず聞き返すパオフゥに、手の中のグラスを弄びながら、事も無げにうららは言ってのける。
「だからぁ、子供ができたの。妊娠したのよぅ」
 およそ、煙草をふかしつつ一杯やっている女の口から語られるべき内容ではない。パオフゥは呆れた。
「相手は誰なんだ?」
「元カレ。ロクデナシだって思ってたのに、一緒に育てるってキッパリ言ってくれたんだぁ。もう、嬉しくってさ」
 とろんとした目のうららは、だらしない笑みを浮かべる。零れそうなグラスの端に唇を近づけて、一息に干した。
「そりゃあ、おめでとさん」
「それでさぁ。もお大変だったんだから。彼、嫌がってもなかなか避妊してくれなくて……」
 話を遮ってヘッドホンを深く着け直すと、美しくも荒々しいピアノの旋律が胸に迫る。革命のエチュード。若きフレデリック・ショパンの激情に満ちた調べ。うららは気にも留めず、まだ何か話し続けている。パオフゥの耳には届かないが、あまり愉快な話題でないことは確かだった。
 だがしかし、突如として、窓一面に稲光が弾ける。
 落雷の衝撃が床を激しく揺らし、一瞬でビルは粉塵となって崩れ落ちた。
 暗闇の奥、赤黒い血溜まりの中、うららはぐったりと人形のように倒れている。さっきまであれ程饒舌に語っていたというのに。携帯電話で相手の男を呼び出すが、待てど暮らせど出ることはない。彼女の腹に宿る小さな命が今まさに尽きようとしているのに。狂おしく猛るピアノの響きは止むことを知らず、彼は、憤怒と絶望に打ち震える胸を掻き毟り、天に向かって吼える。

 結論から言えば、もちろん、ただの夢だったのだが。
 あまりの胸糞悪さに、起き抜けのコーヒーを三杯も飲んでしまった。
 精神的に疲弊しているのは否めないが、午後から、完了報告と所在確認調査の予定が入っている。早めに資料を準備しておかなければ。
「パオ、ホント大丈夫? なんか目の下にクマできてない?」
 四杯目のコーヒーカップを下げに来た芹沢うららは、そんなことを知る由もなく、いつものように屈託なく手を伸ばしてくる。パオフゥは眉をしかめつつ、サングラスに触れさせてなるものかと、その手首をやんわりと捕らえて制止する。
「やめろよ」
 大人しく手を引っ込めたのはよいが、うららは妙にもじもじして、照れているようだ。パオフゥが怪訝な顔をしていると、へへ、と笑った。
「いつもだったら、ペシッ、てはたき落とすのに。なんか、扱いが優しくない?」
「……そうか?」
 ドアベルがカランカランと鳴って、着古したツナギ姿の老年男性が入ってきた。津根という名の男で、地域のシニア層に広くコネクションのある人物だ。
「よおっす」
「ツネさん、いらっしゃーい」
「頼まれてたリスト、持ってきたんだけど、今いいかね」
 腕時計に目をやるうらら。
「あぁ、私、この後打ち合わせなんだ。そろそろ出ないと間に合わないや」
「あれえ。旨いお茶入れて貰おうと思って来たのに、出かけちゃうのかい」
「ゴメン。パオ、対応よろしくね。お茶も入れてあげてぇ。んじゃね、ツネさん。チャオ〜!」
 手を振りながら、小走りで行ってしまった。ツネさんは実に微笑ましい、といった顔で見送る。
「芹沢ちゃん、いつも元気ないい子だねぇ」
「まったく、騒がしいったらねぇぜ」
「明るくて気が利いて座持ちが良くて、最高じゃないの。うちの孫の嫁に欲しいぐらいだよぉ」
「へっ……」
 ただの社交辞令に決まっている。だが、なぜだかうまい返しができず、黙ってしまうパオフゥであった。

 今朝見た夢のことを、思い出している。
(だからぁ、子供ができたの)
 いつかは、その台詞を現実でも聞くことになるのだろう。その相手が元カレだか、新カレだか、ツネさんの孫だかは知らないが。まあ、子供ができれば、多少はあのじゃじゃ馬も落ち着くのだろうか。
 きっと、俺にそのガキを見せにくるに違いない。
 ほら、パオおじちゃんに「こんにちは」しようね。はい、いい子だねぇ。
 子連れの芹沢うららの姿が、幸福に満ち溢れてキラキラしたパターンと、疲れ果ててボロボロになったパターンの両方で思い浮かぶのは何故だろう。今のところ、後者のイメージの方が鮮明に思い描けてしまうのは、「ろくでもない男に引っかかりそうな女」という人物像のためだろうか。
 出産後の妻の体調や育児など、歯牙にもかけない男。あまつさえ借金を繰り返し、浮気女のところに入り浸るような……いかにも、そんな男とくっつきそうではないか。

 実際のところ、そうとしか思えない。現に、
「えーっ、マジで!? 今回のターゲットって、あの俳優のヤマローだったの!? 家出した後、元の顔が分からないぐらい整形して芸能界で活動してたってこと!?」
 うららは写真を指差して興奮している。「やだぁ、テレビで見るよりワイルドでイケてるじゃん。あ〜ん、カッコいいよぉ、整形だけど。私も直接見てみたかったぁ。サインほしーい」
「お前なぁ、この写真見てそんな感想出るかぁ?」
 パオフゥは呆れた。
 なにせ、パオフゥが望遠レンズで撮った写真には、ヤマローの不貞行為の様子がありありと描き出されているのだ。誰も見ていないと油断して、真昼間から駐車場で派手なギャルとカーセックスを繰り広げている。夜になり、その足で別の女の家に上がり込む様子もしっかり撮れている。
「既婚者の浮気現場だぞ。しかも三股以上確定。ふつう、ドン引きだろ」
「だってさぁ、芸能界だとよくある話すぎて、珍しくもないじゃん。そんなに驚かないっていうか。まあこんなもんかなって感じ。まわりの女性ヒトも、そういうの、分かってて付き合ってそうじゃない?」
 写真をテーブルにヒラリと落として、うららは薄く笑った。その妙に達観したような物言いについ、イラッとしてしまった。
「へえ。じゃあ、お前さんはイケメンの旦那なら浮気は許せるわけだ。そいつぁ寛容なこったな。できた人間だ」
「そんなこと言ってない」うららも、ムッとした顔をした。「女性にモテることを前提にしてる芸能人と、一般人はぜんぜん話が違うでしょ」
「なら、ホストはどうなんだ? バーテンは? 保険や訪問販売の営業は、カリスマ美容師は。スイーツ屋や服屋の店員はどうだ? ルックスをアドバンテージにして女の客にリピートしてもらうサービス業なんて、ごまんとあるだろう」
「それは……」
 畳み掛けるように問い、一瞬ひるんだ隙に、さらに追撃するパオフゥ。
「顔が良くて、女と触れ合う機会が多くて、それが仕事ならしょうがねえんだよな。お前さんの判断基準としては。いやはやまったく、ご立派な価値観をお持ちなこって。貞操観念ゼロの不倫男を擁護できるなんて、お優しいことこの上ねぇな」
 ソファにどっかりと背中を預け、やれやれ、と肩をすくめて脚を組んでみせる。
「こんな頭ゆるゆる女じゃあ、変な男に騙されて当然だな。どうせこの先も、ろくでもねえ男しか捕まえられねぇだろうよ。まあ、せいぜい痛い目を見ねぇよう気を付け……」
 うららの表情をちらりと見たパオフゥは、言葉を途切れさせた。必要以上に言い過ぎてしまった。そのことに気付いたのだ。
 それは今まで見たことのないような、静かな怒りだった。拳を振り上げるでもなく、罵るでもなく。ただ唇を引き結んで、非難を込めた燃えるまなざしで、痛いほど強く睨みつけて来る。不覚にも気圧されてしまい、パオフゥは思わず、何か言い訳めいたことを口走りそうになった。しかし何も出てこない。
 口論では間違いなく圧倒していたはずだが、この局面に至っては、もはや自分が退くより他はなくなったようだ。
 パオフゥは視線を落とし、顔を背けた。
「……ご忠告ありがとう。余計なお世話だわ」
 うららは扉を激しく閉めて部屋を出て行った。

 パオフゥは自責し、後悔し、また、苦しんでいた。
 なぜだか、苛立ちがずっと消えないのだ。全て、それのせいだ。
 良からぬ感情に左右され、望んでいないのに何かを傷つける。心とは、こんなにもままならないものだろうか。

 気が付くと、パオフゥは電話の前でずっと待っている。
 何を待っているのかは分かっている。うららからの連絡だ。彼女の夫は外出を許さない、誰かと言葉を交わすことも許さない。ただただ部屋の中で飼い殺しにされて、自由を奪われて、何かを選ぶことを放棄させられている。人間の尊厳はおろか、生命すら脅かされかねない、甘い死の箱庭。
 パオフゥは走った。
 アサルトライフルを担いで、激しい銃撃戦の中を掻い潜る。戦車が、機動隊が、そしてなぜか騎馬兵までもが戦場にひしめき合い、雷雨のごとき砲撃と矢を降らせてくる。
 監視を薙ぎ払って廃ビルの地下に駆けおり、鉄格子の向こうへと手を伸ばして叫ぶ。
「こんなところからさっさと出るぞ。来い!!」
 うららは鎖で繋がれた腕で赤ん坊を抱いたまま、微笑んで首を振る。まるで宗教画の佇まいだ。そう、その姿は殉教者のように見える。訴えかける声に耳を塞ぎ、夫をひたむきに信じているうらら。命をかけて辿り着いたパオフゥの手を、彼女が取ることはないだろう。
「なんでだよ……なんでそんな奴のことを!! お前は……」

 パオフゥは大汗をかきながら目を覚ました。
 言うまでもなく、今回もまた夢である。
 知らぬうちにこわばっていた全身から力が抜け、疲れがどっと湧き上がってくる。
「勘弁してくれよ……」
 鏡を見ながら思う。今日もこれだけ濃いクマができているのだから、アイツも、少しは哀れに思って機嫌を直してくれるといいのだが。
 だが、現実はそうは上手く行かなかった。
 事務所へ入って来たうららは「おはよう」と低い声で言ったきり何も発することはなく、何時間も無表情でノートパソコンと向かい合っているだけだ。パオフゥの顔をチラとも見ないのであるからして、クマに気付いてもらえる余地は一切ない。
 パオフゥの眉間に深い皺が刻まれる。こんな空気にしたかったわけではないのだ。いつもと違って静まり返った事務所は、なんとも居心地が悪い。
 いや、待てよ?
 もしも、もしもだ。うららが仕事を辞めることになったならば、結局、彼女はこの場所から去ることになる。
(旦那がね、専業主婦として家を守ってくれって言うんだ。仕事は好きだけど、家庭を大事にしたいからさ……)
(男女二人きりで働くなんてどうなんだ? って、旦那にアンタとの関係疑われちゃってさ。悪いけど、もうここには来ない)
 うららが去って行くシーンが、色々なシチュエーションで想像できてしまう。
 孤独が募り、心が凍てつくような気持ちになる。元々俺は一人でやってきたはずだ。また一人に戻るだけじゃないか。なのに、何故。
 長い間黙っていたパオフゥの、何かが、ついに折れた。
 項垂うなだれたまま、うららの椅子の斜め後ろに立ち、ボソリと声をかける。
「……まだ怒ってるのか?」
 うららはピタリと手を止めた。視線も寄越さずに淡々と答える。
「別に。男を見る目ないのはホントだしね?」含みのある返しだ。「どうせ、今まで散々な目にあってきたわよ。危機管理のできてない、浮気し放題、騙し放題のカモ女よ。だけどさ、私は別に……遊ばれててもいいなんて思ったこと、一度もないもん。ちゃんと愛して欲しかったし、愛されてると信じてた」
 うららは俯く。
「好きになった相手のこと、信じたいって思ったっていいじゃん。そりゃ、アンタから見たらノータリンに見えるかもしんないし、これまでは失敗続きだったけどさ、今は……その。信じられるって確信できる人も……いないことも、ないし。ちょっと、ひねくれ者だとは思うけど」
「……産休はちゃんと出す」
 突然、抑揚のない声でパオフゥが呟き、うららはその唐突な内容に面食らった。
「はい?」
 戸惑いながら見上げてくるうららを余所に、パオフゥは早口でまくし立てる。
「育休もたっぷり取ってくれて構わねえ。多少うるさくても我慢してやるから、事務所にガキも連れて来い。俺も、手が空いてる時なら相手してやれる。俺と二人だとマズいってんなら、何人か追加で雇ってもいい。だから……だから、頼む。変な男とだけはくっつくんじゃねぇ。仕事も辞めてくれるな。お前がいなくなったら……困るんだよ」
 うららは驚いた、男が本当に哀しそうな顔をしていたので。
 哀しみが伝播し、うららの表情は歪んだ。
「なんでそんなこと言うの」そしてそれを一瞬で吹き飛ばすかのごとく、怒りもまた沸騰した。「アンタ一体、私の何なわけ? アンタには……アンタにだけはねぇ、私の結婚相手の心配なんてされたくないのよ!!」
 うららはキレた。
 鋭い平手打ちをかまされた衝撃で、サングラスがすっ飛ぶ。うららは「あっ」と小さく声をあげて一瞬うろたえたが、すぐに踵を返してバッグを掴み、振り返ることなく走り去った。
 階段を駆け下りていく足音を聞きながら、パオフゥは俯いたままぼんやりと立っていた。
 ややあって、開きっぱなしの玄関ドアから、ツナギ姿に野球帽をかぶったツネさんがおそるおそる入って来た。
「お、おいおい。どうしちまったの? パオフゥさん」
 虚空を見つめたまま微動だにしない。顔の前で手を振ったり、両手をパンと鳴らしてみたりするが、反応はない。
「今、芹沢ちゃんともすれ違ったけど、見向きもしてくれなくって変だったしよお。さては、派手にケンカでもしたね? おたくら」
 床に落ちているサングラスを拾ってパオフゥの手に握らせてやる、優しいツネさんであった。
「俺は……」パオフゥはポツリと呟いた。「恐れてんのかもな。アイツが変わっていっちまうことを。置いて行かれちまうことを。けど……どうしようもねぇよな。誰だって、いつまでもそこに留まってるわけじゃねぇ。それぞれの道を歩いてるんだからな」
 ツネさんは腕組みをしてウーンと唸った。
「よく分かんねえけどさ。芹沢ちゃん、追っかけたほうがいいんじゃない」
 虚ろな目で見返してくるパオフゥに、焦れたように畳みかける。
「あの子、結構、直情型でしょ。ほっといたらなにするか分かんねーぞ」
 ツネさんは決して深刻なニュアンスでその言葉を口にしたわけではなかったのだが、パオフゥの目の前には一瞬、血の海に横たわる体という凄惨な光景が広がった。夢で見た救いのない光景に、思わずゾッとする。
 次の瞬間にはもう走り出していた。
 勢いよく階段に踏み出す
 ……が、なんとしかし、慌てすぎたあまり、彼はサングラスを手に握ったまま装着していなかったのだ!
 よく見えない視界の中、はたして、パオフゥは階段から足を踏み外した。世界がスローモーションになり、ぐるりと一回転したかと思うと、ビルのエントランスまで真っ逆さまに転げ落ちていった。

「パ、パオフゥさーん!大丈夫けぇ!」
 頭上から声が聞こえる。
(うっ……頭が痛ぇ)
 パオフゥは思わず身じろぎする。
「ああ、良かった良かった。意識はちゃんとあるみたいだぁ」
 どこか遠くで鐘が鳴っているようだ。高らかに、歌うように響き渡っている。
(芹沢は、どこだ?)
「ああ、彼女ならここにいるよ。もう大丈夫だ」
「パオ」
 うららの手がパオフゥの頬を撫でる。
(芹沢……)
 甘く優しい香りに包まれると、何かが胸にこみあげてくる。
「今までありがとう。私、再婚相手と幸せになる。もう会えなくなるけど、アンタも幸せになってね」
「さあ! みなさん、新婦の新たなる門出に祝福を!」
 愕然とするパオフゥをよそに鐘の音が何度も繰り返され、耳の奥にわんわんとこだまする。多数の拍手に包まれて、頭が割れそうだ。
(待ってくれ……行くな!!)
 優しい手の感触がそっと離れ、パオフゥは必死でもがく。
 突然の豪雨が彼を押し流し、

 パオフゥは、声にならない叫びを上げながら現実に引き戻された。
「……!!」
 サングラスをかけていないぼやけた視界の中に、うららの泣き顔が映る。
 膝立ちになって彼の体の上にかがみ込んで、顔にできたすり傷に触れているようだ。
「バカっ!! なにやってんのよ。打ち所が悪かったら、いくらアンタでも死んじゃうわよ!?」
 ぽたりと、暖かいものが一粒、パオフゥの頬に落ちる。
 じっと見つめていると、目も鼻も真っ赤になったうららは、気まずそうに体を離して手で顔を隠した。
「な、なによ。忘れ物しちゃったから、取りに来ただけよ。別に、アンタが追いかけて来るのを待ってたわけじゃないかんね」
「……」
「……ごめん。私のせいで、パオが怪我するなんて思ってなかった。結構痛い感じ? ディアでもかけとく?」
 まだぎこちなさは抜けないが、その様子は、いつものうららであった。
 パオフゥはもう、怪我のことなどどうでもよかった。というより、この状況について考えることをすでにやめていた。
 さらに正確に言えば、階段から落ちて怪我をしたことなど完全にそっちのけで、まったく違う問題について思案していたのだ。

 人が変わることを止めるなんざ、どうやったって無理だよな。
 ならもう、自分が変わるしかねぇってこったな……。

 力強い腕に引き寄せられ、体勢を崩したうららは、よろめいてパオフゥの胸の中に迎え入れられる。
「えっ!? ちょっ」
 抱き締められ、うららはジタバタと暴れた。
「馬鹿、な、なにすんのさ!! こんな往来で……は、離しなさいよぅ!!」
 ビルのエントランス横で折り重なるような形で密着している二人。人通りの多い場所ではないが、それでも通行人の視線が刺さる。
 日傘をさした老婦人が目を丸くし、こちらを凝視しながらゆっくり歩いていく。
 ランドセル姿の少年たちは「やべぇ」「ラブシーンじゃん」と冷やかしの歓声を上げ、照れ隠しのように互いを小突き合いながら走り去る。
 階段から転落した男をハラハラと見守りながら、通報のための携帯電話を握りしめていたサラリーマンは、気まずそうに苦笑しながら引き返していく。
「離してったら!! 頭でも強く打ったんじゃないの!? コラ、いい加減にしないとぶつわよ!!」
 なおも抵抗するうらら。
「さっきも力いっぱいぶったじゃねぇか。平手で。おかげでグラサンがすっ飛んで、俺ぁそのせいで階段から落ちたようなもんだ」
「あ、あれはだって……パオが悪いんじゃん」くぐもった声が胸のあたりから漏れてくる。「ちゃんとした相手と結婚しろとか、なんとか。上司気取りだか先輩風だか知らないけどさ、馬鹿みたい。アンタなんか……アンタなんかねぇ、ちょっと痛い目見るぐらいがちょうどいいのよ」
「泣くほど心配したくせに、よく言うぜ」
「泣いてないし、心配もしてないわよ!!」
 広い胸を強い力で押し返し、体を思いきり捩って、怒った顔のうららはついに腕の中から出ていった。
「からかうの、やめてよ」
 アスファルトの埃で汚れたスカートの膝を払いながら、地面に転がったバッグを拾って足早に去っていく。
 忘れ物、取りに来たんじゃなかったのか? パオフゥは苦笑しながら体を起こし、握ったままだったサングラスをかける。
「悪かったよ。だが、からかうつもりなんて別になかったぜ」
 うららは歩みをゆっくり止めた。
「さっきの発言も訂正する。まともな相手を選べなんて、俺はもうそんな口出ししねぇよ。お前さんがいいと思った男と一緒になればいいさ」
「…………何よ、それ」
 バッグの紐がギュッと握りしめられ、肩が微かに震える。
「何って、言葉の通りだよ。いいか?」パオフゥは彼女の背をまっすぐ睨んで指を突きつける。「この俺を本気にさせちまったらな、『いいと思った男ランキング』のぶっちぎり一位は間違いなしだぞ。余所見なんてしてる暇はなくなるぜ。覚悟しておけよ」
 思わず少し振り返った髪の間から、驚いた目がパオフゥをまっすぐに見た。
 自信たっぷりに唇の端を上げてみせるパオフゥに、うららは半目になってむくれる。
「……なにさ。男なんて星の数ほどいるんだかんね。急に距離詰めて来て、ちょっとカッコつけた程度で、簡単に表彰台に立てると思ったら大間違いなんだから。バーカ」
 再び勢いよく背を向け、靴音高く歩いていくうらら。
 パオフゥは眉間に皺を寄せる。
 おかしいな、態度と言葉で示してみせたはずなのに、なぜいい雰囲気にならない?
 首をかしげていると、上の階からヒューヒュー! と陽気な指笛が鳴らされた。
 見上げてみれば、ニヤニヤ笑いを浮かべたツネさんが二階廊下の腰壁から身を乗り出して手を振っている。
「ついに行ったなぁー!? いやいや、あのパオフゥさんから、芹沢ちゃんにねぇ! そりゃあ、まさかの予想外だわ。まあ気を落とさずにのんびり攻めて行こうやぁ。なんなら、俺もひと肌脱いでやってもええぞぉ!」
「うるせえなぁ、もう……」
 パオフゥは胡坐に頬杖をついて、盛大なため息を吐いた。

 一人きりの帰り道、うららは白い飛行機雲を見上げた。
 小さく、ばか、とつぶやいた唇は微笑んでいる。
 ここのところ、彼の言動に振り回されっぱなしで頭に来ていた。何を思って突然あんな気障きざな宣言をしたのかは知らないが、鼻であしらってやったことで、ようやく溜飲も下がったというものである。芹沢うららは、おとなしくやり込められているだけの女ではないのだ。
「男なんて、星の数ほどいるのにさ。ホント、馬鹿だよね」歌うように囁く。
 ランキング“暫定一位”の顔を思い浮かべたうららは、少し軽い足取りで帰路を辿るのだった。