わからない女

 分かりやすい女だった。
 「イケている」オスにめっぽう弱く、事あるごとにしなを作ってみせていた。親友とのただならぬ因縁を匂わせる訳アリの憂い顔の少年にまで、なかば本気めいた色目を送るような女だったのだ。この、芹沢うららという人間は。
 その悪癖に反してなぜか、男をたぶらかすほどの手管や魔性の色香といったものとは縁遠いのである。必要以上にねちっこく迫ってみたかと思えば、ちょっとしたことですぐに照れたり、喜んだり、怒ったり。つまるところ、馬鹿正直で単純な女なのだ。思い込んだら一直線。繊細な駆け引きなど、およそ得意なたちではない。
 パオフゥとそのかつての相棒の関係性についてつまらぬ邪推を巡らせ、やたらと突っかかって来た時期もあった。「相棒は相棒だろ? それ以上でもそれ以下でもねぇよ」そうぶっきらぼうに吐き捨ててみせても、うららは「ふーん。どうだか」とむくれたように唇を尖らせて、湿度の高い視線を寄越すだけ。幼稚な嫉妬、それ以外のなにものでもない。
 誰が見ても一目瞭然だった。
 彼女がパオフゥに少しずつ惹かれ、いつしか“落ちて”しまったのだということが、あまりにもあからさまであった。あの堅物な克哉ですら気付いていたのだから、衆目一致と言って差し支えなかろう。
 知ったことか、とパオフゥは思った。
 戦いは終わったのだ。彼が永らく胸中に抱え続けて来たものが昇華して、本来あるべきところへ還っていく。これからは、前を向いて歩き始めなければならない。自分でたくさん傷つけてきた、自分自身のために。他人の想いなど面倒を見ている暇はない。
 だから、パオフゥは知らないふりを決め込むことにしたのだ。分かりやすい女の、分かりやすい感情を、ただ黙殺した。

 早いもので、それからもう季節は三回巡ろうとしている。
 彼らの繋がりは、出会った頃には想像もしていなかった方向へ変わっていった。いまや、誰が見ても二人は仕事上の良き相棒であった。プロのマンサーチャーとして、小規模ながらも繁盛している事務所を共に回しているのだ。
 パオフゥはうららに感謝していた。
 最初は小銭稼ぎの手段でしかなかった人探しの仕事を、正式な事業へとシフトするにあたり、うららが自発的に申し出たこととはいえ、どれほどパオフゥに献身的に尽くしてきたか。人前で大っぴらに語られることはないが、一例を挙げるならば。
 例えば、登記や法人口座の開設。パオフゥが情報屋から買った戸籍では信頼性が低く審査を通過できないと思われるため、うららの名義ですべて登録してある。事実上のリーダーはパオフゥであるし、金銭面においても彼が全て出資しているのだが、そのじつ、書類上ではそうではない。さらに、うららは事務所を借りる際の保証人としても署名してくれているのだ。
 他には例えば、日々の細やかなアシストもそうだ。
 録音機やカメラ、無線機をはじめとしたマシンの扱いに長けているパオフゥがメインとなって調査をし、交渉ごとやプレゼン対応、資料化などが得意なうららがそれをサポートするのだが、家事全般にも秀でている彼女は、ともすればすぐに雑然としてしまいがちな事務所も常に整頓された状態でキープしてくれる。しかも、長丁場の張り込みへ出かける前には、栄養バランスにまで配慮されたうまい弁当を持たせてくれたりもするのである。
「マーヤと私の朝ごはん作るついでに詰めてるだけだからさ。二人前も三人前も変わんないし、遠慮とかしなくても別にいいよ。……貰いっぱなしじゃあ落ち着かないって? うーん、じゃあさ、帰りにインスタントコーヒー買ってきといてよ。そろそろ無くなっちゃうから。そう、大きいサイズのやつ。よろしくね」
 何でもないように軽く笑う。その気遣いのおかげで、トートバッグの重みを感じずに受け取ることができている。
 また、例えばトラブルへの抑止力として。
 こんな仕事をしていると、時にはクライアントとの問題ごとも起きる。たまにあるのだ、恋人に行方を眩まされた女が、多少の辛口なアドバイスを交えて親身に相談に乗ってくれたパオフゥに懸想けそうする……そんな出来事が。
 そういう時は、牽制のため、うららが間に割って入る。殊更ことさらにわざとらしい微笑みを浮かべ、態度で威圧して「迷惑行為はお控え下さいね」と言外にほのめかしてやると、相手の女は多少引きつった顔を見せつつも、存外あっさりと引き下がるのだ。逆恨みされるようなことはまだないが、多少なりとも、リスクのある仕事ではある。文句ひとつ言わずに嫌な役目を引き受けてくれているうららは、できた女だと思う。

 ここまで来れば「感謝している」というよりは、もはや「頭が上がらない」と言い換えた方が正しいかもしれない。
 しかし幸いにも、うららはそれらをダシにして弱みにつけ込んでくるような人間ではない。
 彼女との共同経営を経て、関係性がどのように変わってしまうのか不安に思ったものだが、蓋を開けてみれば杞憂に終わった。相棒づらで馴れ馴れしいそぶりをしてみたり、変に色恋を意識して意味ありげな挙動を見せたりすることも一度としてなかった。
 むしろその「逆」ですらある。
 そういったものにはまるで興味がありませんよ、といったポーズを取るのが、すっかり彼女のスタンダードとして定着してしまったようなのだ。

 思い出すのはそう、あれは昨年のクリスマスの夜。張り込みのため、エンジンなしの車内で過ごす凍える深夜のことだった。
 降り始めた雪が触れては消える窓ガラスの向こう、浮かれて道行く人を恨めしそうに見送りながら、すでに何度目かわからなくなったボヤきをこぼす。
「はぁ。世間様では今頃みんな、キャンドルを囲んで、あったかいチキンやふわふわのケーキを食べてるんでしょうねぇ。ううっ、寒い。寒すぎる。せめて暖房のあるところで過ごしたかったわよぅ」
 ガチガチと奥歯を鳴らして両手に息を吹きかける。赤くなった鼻をティッシュで拭いながら、パオフゥがそれを茶化した。
「ったく、口を開きゃ恨み言しか言わねぇな。今ならマッチでも擦りゃ、クリスマスの幻覚が見れるんじゃねぇか」
「あはは、マッチかぁ。もし、そこのお方、マッチを買ってくれませんか。売れないなら自分で燃やしちゃうわよぅ、ってね」お調子者な部分のあるうららは、早速乗っかってくる。「わぁ、炎の中に暖炉が見える。それに七面鳥の丸焼きも。イケメンの彼氏もいる」
「いや誰だよ」パオフゥは思わずツッコんでしまった。「優しいばあちゃんが迎えに来るとこだろ、そこは」
「うちのおばあちゃんまだ現役バリバリだもん。それにせっかくのクリスマスだし、やっぱイケメン彼氏の霊が来てほしいじゃん。ポルシェとか乗り回してさ。高級フレンチの店にシャンパン飲みに連れてってくれるわけ」
「もう世界観めちゃくちゃじゃねぇか」
 とまあこのように、くだらないことで笑い、軽口を叩き合いながら過ごしたのである。残念ながらこの日ついにターゲットは現れなかったので、凍えた二人は深夜のコンビニエンスストアで売れ残りのケーキとシャンメリーを買い、車の中で乾杯をしてから解散したのだった。
 この時活躍した“イケメン彼氏ネタ”は、うららの十八番であった。
 よくある自虐ネタだが、むしろパオフゥに対してはある種の逆アピールであるとも言えよう。

 ──私はイケメン彼氏を所望していますが、これは別に、特定の人物とは何ら関係ございません。ただの女としての普遍的な願望であり、貴方には何も求めていません。よって安心して下さい。

 つまりこういう趣旨のアピールなのだ。
 パオフゥにはすべて分かっているつもりだ。彼女はおくびにも出そうとしないし、先のような言動でおちゃらけたりもするが、それでも、日頃の言動や仕草の一つ一つに確かな好意が滲み出ている。昔も今も、自分への想いは変わっていないと確信している。
 今では、健気にふるまう彼女のことをなんとなく不憫に感じてしまっている。三年という月日のせいで、すっかり情が移ってしまったらしい。困ったものだ、とパオフゥは考える。

 そんな折、遥か西の大地への出張が決まった。
 季節は春。西日本エリアの人探しにおいて協力関係にある提携会社数社へ、今後の打ち合わせも兼ねて挨拶回りをすることになったのだ。事務所を閉め、二人揃って一泊二日の旅行である。
「着いたらまずピーエムリサーチさん、空港のそばだからすぐだね。そっから電車乗って二駅移動かな。山源サービスさんからブロッサム探偵社さんはバス一本で行けそう。えーっと、バス停と行き先番号は……と」
 うららはデスクに向かい、忙しそうに路線図を開いて調べていた。旅行の手配とスケジュール調整は彼女の役目だ。
「丸山のオッサンとこは行かねぇのか?」
「なんかねー、金曜は忙しいんだって。土曜に寄れそうなら適当に顔出してくれ、だってさ」
「……どうせ仕事じゃなくて船釣りで忙しいんだろうな、あのオッサン」
 パオフゥは半目になりながら、特定失踪者のリストをチェックしている。
 そのモニターの横から、デスクの上に身を乗り出したうららの楽しそうな顔がひょっこりと覗いた。
「ねえねえ。土曜の帰りの便はさぁ、夜七時半ので予約しちゃっていいよね? せっかくの旅行なんだから、お昼ご飯食べて、ちょっとぐらい観光して帰りたいのよぅ」
「あん?」パオフゥは煙草をつまんで口から外した。ため息とともに大量の煙を吐き出す。「……ったく、遊びじゃねぇんだぞ。まあ、ついでだし、別に構わねぇが」
「よっしゃ!」
 両手でピースをしたうららは、張り切って腕まくりをし、勢いよくガイドブックをめくり始めた。
「パオももちろん一緒に来てくれるでしょ? 私、このプチ神社巡りしたいのよねぇ。天神さまにお参りして、仕事運向上祈願して、お餅食べんの。そんで縁結びの神様のとこ行って、近くの温泉入って帰る。なかなかいいプランでしょ」
 さりげなく、縁結びと来たもんだ。
 ったく、しょうもねぇな、と心の中で呟く。急ぎ足で一日に複数回も別の神に祈りを捧げてそれぞれの恩恵にあやかろうとは、げに浅はかなるかな、だ。そんな付け焼き刃の神頼みで、人の……ましてや、この俺の……気持ちをどうこうしようとは片腹痛い。
 いや、ちょっと待てよ?
 なにも、縁は一人に一つきりとは限るまい。実るあてのない今の恋に見切りをつけて次の出会いを、というのもアリなわけだ。縁結びの神とやらにすがる連中には、そういった斡旋も大いに需要があるに違いない。
 パオフゥは、ムッとした。
 神仏を信じるような自分ではないし、祈りなんぞに力があるとも思わないが、もしも。万が一、そういう腹積もりで参拝するというのならば。無二の相棒に乞われたからとて、誰がわざわざ隣に並んで合掌などしてやるものか。だって、そんなのおかしいではないか。うららと見知らぬ誰かがくっつく手伝いをして、一体自分に何の得があるというのだ。
 眉間に皺を寄せて考え込んでいると、うららが急に朗らかな声を上げた。
「あ! こっちの、海に囲まれたでっかい公園もいいかも。水族館とか動物園も併設されてて見るところいっぱい。一日中遊べちゃうじゃん。うーん、そっちのが面白いかなぁ」
 厚いガイドブックに、所狭しと付箋を貼りつけていくうらら。
(……考えすぎ、か?)
 縁結びなど、特に深い意味があって言ったことではないのかもしれない。
 パオフゥは大きく息をついて、過熱した考えをひとまず脳の片隅に追いやった。

 ややあって、出立の日を迎えることとなった。
 ここのところパオフゥは何やらモヤモヤした気持ちを抱えて過ごしていたが、久しぶりの遠出はなんだかんだで浮足立つものだ。空港のフードコートで朝食をとり、機内でつまむための菓子類もしっかり買い込んで、ああでもないこうでもないとじゃれ合いながら二人は空の旅を楽しんだ。
 珠阯レ空港で買い込んだ手土産の袋を両手いっぱいに下げて、西の大地に降り立つ。
 どことなく情緒を感じる街並み、知らない空気、馴染みのない信号機の音、そしてはじめて会う人々。高揚感を胸にあらわれた来訪者の彼らを、いつも電話やFAXやメールでやり取りをしている協力会社の担当はみな、もろ手を挙げて歓迎してくれた。
「仕事ぶりから想像しとったのと全然違って、派手なファッションしとるなぁ」
「そんなナリじゃ目立ちすぎてまともに調査できんやろうと思うけど、これで凄腕っちゅうから、世の中分からんね」
 どこでも、開口一番このようなことを言われた。
「さすがに、聞き込みや尾行の時ゃもっと地味な服を着ちゃいるが……そんなに目立つかねぇ」
 パオフゥは頭を掻きながら首をひねっている。
「金ぴかスーツ着てなくたって、変わったグラサンかけたロン毛男なんて目立つに決まってるわよぅ」と、うららがニヤニヤ笑う。
 その場にいる全員が『お前がそれを言うか』という目で彼女を見たのは言うまでもない。
 ともかく、交流は終始和やかな雰囲気で行われ、たいへん有意義な場となった。発生したトラブルや新たに導入したツールに関する情報共有、スムーズな目標達成のための取り組み提案、予想される法改正の動きなど、活発に意見が交わされた。
 手を振る社員たちに見送られながら三社目の玄関を出る頃には、すっかり暗くなった空にぽっかりと白い月が浮かぶ刻限であった。
「はぁ、やれやれ。疲れたな」
 知らない街の雑踏を緩やかな歩調で行きながら、ポケットに片手を突っ込んで背中を丸めるパオフゥ。
「ね、疲れたわぁ」スーツケースを引っ張っていない方の肩を回しながら、うららが息をつく。「でも提携社さんたちとの結束深まったし、次回からの課題も見えてきたね」
「まあな。まずは、依頼者への聞き取り項目の追加と、外注する時の処理フローの見直しからだな」
「こりゃ、週明けすぐにでもやっちゃった方がいいわよねぇ。やーん、残業増えちゃう」
 冗談めかして半泣き風の顔を作るうらら。すぐこの調子だ、とパオフゥは唇を歪めて笑った。
 実を言えば、パオフゥもうららも、時間単位・月単位で決まった給料を得ているわけではない。最初に話し合って、依頼一件ごとに歩合制でやるということになっている。単純に依頼の多い月は収入が多くなり、逆ならば少なくなるわけだ。当然、事務仕事で残業をしたからといって明確な金銭でのリターンは発生しない。
 それでも、嫌々といった態度でうららがそれをやっているところは見たことがない。軽薄な見た目から勘違いされやすいが、真面目な奴なのだ。そして……もちろん、それに加えて「相棒であるパオフゥのために頑張っている」という動機が確実に存在するはずだと彼は考えている。
 好意もない相手のために、笑顔で頑張れるという人間は少ない。間違いなく、彼女は自分を好いているのだ。
 だが、最近は少しばかり懐疑的になっている。
 実際のところは、どうなのだろうか?
 三年もの間、一度たりとも、大きな波風ひとつ立てることなく、うららは穏やかな感情をこちらに向け続けてきた。あの直情的でギラギラした欲望の塊のような人間が、である。
 もしかすると、自分は履き違えているのかもしれない。すでに、彼女の心から熱く狂おしく燃える愛や情欲は去り、友愛や敬愛のような慈しみの感情に変わっているのではないだろうか。一口に好いていると言っても、果たして恋愛的な意味であるのかどうか。
 分からない。
 人の心とはこんなに量れないものだったろうか。
 駅前に向かう便を待つ間、パオフゥは、バス停に掲示された時刻表を指でなぞりながら睨んでいるうららを横目で眺めた。そして、ぼんやりと思案にふけるのであった。

 まだ慣れないバスをなんとか正しく乗りこなして辿り着いたのは、有名チェーンのビジネスホテルだった。オーソドックスな造り、オーソドックスなサービス内容、そしてオーソドックスなお手頃価格。出張で泊まるために手配するホテルとしては百点といったところであろう。さすが、抜かりのない相棒の仕事である。
 颯爽とロビーに歩を進めたうららが、窓口の従業員の笑顔に軽く会釈を返す。それから、後ろで見ているパオフゥをちらりと振り返った。と同時に従業員が二名、フロントに待機する。
 チェックインは別々に、ということらしい。
「……」
 様子を伺いながら、宿泊台帳にペンを走らせる。
 パオフゥの懸念をよそに、受付はつつがなく完了した。朝食や設備の説明を受け、ルームキーを渡されながら、パオフゥは思った。
 チェックインは別々。それはそうだ。ただの同僚二人が仕事で来ているのだから、そうでなければおかしい。二部屋手配するのは当然のことなのだ。
 当然ではあるのだが。
(いや真面目が過ぎるだろ!!)パオフゥは心の中でのけぞった。(俺がアイツだったら、わざと一部屋だけ予約しといて『どうしよう、部屋取れてなかった』って手違いを装うぐらいの悪知恵は働かすぞ!?)
 これはいよいよ、確定なのか。本当に、もう炎は燃え尽きてしまっているのかもしれない。
「…………」
 斜め後ろのサングラスの奥からじろじろと見られていることに気付かないうららは、鼻歌など歌いながら、エレベーターのドアガラスを使って前髪を直している。
「あ。そういや、パオ晩ご飯どうする? 近くだと串揚げとか、ステーキとか、がっつり系のお店が多いみたい。ちょっと歩いてもいいなら、ラーメン屋台もあるよ。お魚も新鮮でいいらしいし、迷うわよねぇ」
 エレベーターが止まり、ガイドブックを器用に片手でパラパラとめくりながら廊下に出る。
「あぁ?」
 パオフゥは歩きながら少し考え、ふと何か思いついたように目線を上に向けた。
「……いや、今日は疲れたしコンビニで買って来て済ませねぇか?」
「えー、食べに行かないの。せっかくご当地グルメを味わうチャンスなのに」料理屋特集のページを少しだけ名残惜しそうに眺めてから、ガイドブックをしまう。「でもまぁ、疲れてるんならしゃーないかぁ。荷物いっぱい持ってくれたし、打ち合わせも頑張ってたから、ねぎらってあげないとね。よーし、じゃ、荷物置いたらすぐ買いに行くわよぅ」
 うららがあまりにもあっさりと引き下がったので、パオフゥは少し後悔した。罪悪感に胸が軋む。
 入念に下調べをして楽しみにしていたであろう機会を、いとも簡単に手離せるのは何故なのか。この上なく優しい表情で笑いながら、凪いだ感情でもって接してくるのは何故なのか。
 その下に何かを秘めているのか、それとも、何も存在しないのか。
 パオフゥには分からない。

 結局、隣のコンビニエンスストアでパオフゥは中華丼を、うららはミニドリアとサラダを買った。もちろん、缶チューハイとペットボトルの緑茶を数本、それに乾き物もいくつか選んである。
 ホテルのパオフゥの部屋に戻って、夕食を共にした後は、まったりとした時間を過ごしていた。
 うららは旅行気分を味わいたいと言ってテレビのローカル番組を見たがったが、この時間帯は放送していないようだ。仕方なく、しょうもないクイズ番組を流している。
 椅子に横向きに座って、ライティングデスクを肘掛けがわりに、チューハイをちびちび飲んでいるうらら。ベッドの上に脚を投げ出して座ったパオフゥは、眼前に広げた周辺マップを確認するふりをしながら、その顔をちらりと盗み見た。
 イカの足を噛みながら、極めてくつろいだ面持ちをしている。ほろ酔いの一歩手前、といった風情だ。
 先ほどは彼女に対して後ろめたい気持ちを感じたものだが、今は逆にモヤモヤしている。夜、ホテルの部屋。男と二人きり。目の前にはベッド。普通、多少なりとも緊張したり意識したりするものではないのか?
 モヤモヤを通り越して、腹が立ってくる。あまり考えたくはなかったのだが、この際、率直に言うならば、こっちは意識している。ああ、意識していたとも。
 仮に、うららの謀略により一部屋しか予約されていなかったとしても、それによってついに一線を越えることになったとしても、あるべき流れとして受け入れる覚悟はできていたのだ。衣類ポーチの奥に忍ばせた避妊具は、彼なりの決意の表れであった。長らく寄り添ってくれたうららが、もしも心から望み、勇気を振り絞って一歩踏み出すのならば、今宵、抱いても構わないと。
 なのに、この女は。
(もう頭にきたぜ。どんな気持ちで俺の前に座ってやがるのか、この手で暴いて、確かめてやる)
 パオフゥはチューハイの残りを一気に呷ると、ぎらついた目でベッドから立ち上がり、何でもないようなそぶりで窓辺に近付いた。あたかも、カーテンの外をちらりと覗きに来ただけだ、といった様子で。
 うららは特に気にも留めない。番組が途切れて製薬会社のコマーシャルが流れ始めたのをきっかけに、暇そうに旅行のガイドブックをめくり出した。
「ねぇ。明日、丸山さんとこ寄る?」
 のんびりした声が尋ねる。
「寄るなら、観光する前に済ませちゃいたいのよね。移動がややこしくなるし。でもあのオジサン、朝はフラフラしててあんまり連絡取れないじゃない。行っても会えないんじゃ、無駄足になっちゃうわよねぇ」
「……別にいいんじゃねえか、行かなくて」
「やっぱそうだよね? 寄れたら寄ってって言い方だったしさぁ。多分、いないかもって自分でも思いながら言ってるよね」
 組んだ足をゆらゆらさせながら、うららは苦笑した。細いつま先に引っかけられた、備え付けの白いスリッパが揺れる。
「じゃあいっか。明日は思う存分観光するわよぅ」
 首を少しだけ前に倒して、紙面に集中し始めたうららの背中に、無言のまま足音を殺して近づく。綺麗にマニキュアの塗られたつやつやの爪が、腿に乗せた本のページを撫でているのが背中越しに見えた。
 パオフゥは目を細めた。
 丸められた背に覆いかぶさるように、身を屈める。
 彼の滑らかな長髪がうららの肩に落ち、つう、と無防備な首筋を撫でた。
「──!?」
 うららはびくりと身を震わせ、息をのんだ。
 驚きのあまり身動きできない彼女は、恐る恐る視線を動かして状況を把握しようとした。
 背後から光を放つ照明が、本の上にパオフゥの影を落としている。
 近い。今にも密着しそうなほどに。
「お前さんは観光のことばっかりだな」耳元に口を寄せ、息を吹きかけながら甘い声で囁いてみせると、縮こまった肩が小さく震える。「それだけでいいのか? もっと周りを見てみろよ。他にも楽しくて気持ちいい遊びがあるかもしれねぇぜ」
 返事はなかった。それより早く、パオフゥの左手がライティングデスクの上に置かれたうららの手首を掴んだからだ。拘束するように、柔らかく押さえつけられて、うららは呻くような吐息を漏らした。
「ここにゃ俺とお前さんしかいねえ。欲しいモンがあるなら素直に言ってみな。どうなんだ?」
「や、な、何言って……っ」
 顔を真っ赤にして狼狽えているその様子を見ていると、なんだかこっちまでゾクゾクしてしまう。こんな反応をするということは、やはり俺に気があるってことじゃないか。よく分からない態度で俺を翻弄するからこうなるんだ。
 いい気味だ!
「なあ、誰とどうなりたいのか、もう、洗いざらいぶちまけちまったらどうだ。どんな気持ちで俺の部屋に来たんだ? まさか、これっぽっちも期待してなかったとは言わねぇよな?」
 俯いて黙ってしまったのを良いことに、パオフゥは調子づいてさらに饒舌に言い募った。
「そういや、俺を労ってやるとか言ってたなぁ。まさか、コンビニ飯食って晩酌しただけで終わりってこたぁねえよな。オイルマッサージでもやってくれるか? それとも、される方がお好みかい?」
 彼女の手首をそっと揉むようにして、袖のレースの中に指を這わせると、ついにぎゅっと目を閉じてしまった。
「耳の先までこんなに真っ赤になっちまってよ。やっぱ、お前さんは分かりやすいぜ。あーあ、残念だったな。今まで必死に隠して来たのにバレちまって。可哀想になぁ」
「……たが」
 散々言葉で嬲られていたうららが、弱々しい声を上げた。
「あん?」
「アンタが言ったんじゃないの。うちの事務所は色恋沙汰は御法度ごはっとだ、って。俺はそういう面倒臭いのは絶対にごめんだぜ、変なこと言い出したら即刻叩き出すからな、って」
 深く傷付けられたことを非難するような悲しげな声に、パオフゥは怯んで、思わず握っていたうららの腕を離した。
「そ、そうだったか?」思い返してみるが、まったく記憶にない。
「そうよ」
 ぽろ、ぽろり、と涙の粒が二つ転がって、ガイドブックのページの上に落ちた。
「だから、黙ってるしかないじゃん。嫌われたくないし。本当はそういう目で見てるとか、隣にいるだけじゃ足りないとか、私が幸せにしてあげたいとか、触って……ほしいとか。そんなこと、言えないわよ。言えるわけ……ない、じゃん」
 うららは必死に堪えていたようだが、ついに顔を覆って泣いてしまった。
(ま、参ったな……こりゃ)
 客観的に見て最悪だ、とパオフゥは思った。
 先手必勝で「好きだとか絶対に言うなよ」と釘を刺したことをきれいさっぱり忘れ、辛抱強い彼女に三年も我慢を強いておきながら、今になって「俺とやりたいんだろ」と迫って泣かせてしまったわけだ。これは、いくらなんでも酷い。
 非常に参ってしまう状況だが、とにもかくにも、泣いているうららを何とかしたい。だが、何を言えばよいのか。かける言葉など、ひとつも思い浮かばない。躊躇ためらいつつ、震える背中を包み込むように腕を伸ばし、そっと抱きしめようと試みる。
 ところが、うららの右肘がものすごい速さで予期せぬエルボーを繰り出してきたので、ノーガードのパオフゥは壁まで吹っ飛んでしまった。
「ぐはぁっ……!!」
 どしん、と背中を強くぶつけて、一瞬目の前がチカチカした。鳩尾みぞおち付近が痛い。もしペルソナを降魔していない人間だったなら、あばら骨がどうにかなっていたかもしれない。
 うららは立ち上がり、涙に濡れた目でまっすぐ睨みつけてきた。
「パオの大馬鹿野郎。スットコドッコイのクソ男。アンタなんか大っ嫌い」
 唾棄するように言い捨てて、あっという間に部屋を出て行ってしまった。咄嗟に呼び止めようとして手を差し伸べたものの、この場を丸く収めることができる起死回生の言葉が出てくるはずもない。結局、開け放たれたドアがゆっくりと閉まっていくのを見届けてから、力なく腕を下ろすことしかできなかった。

 今までにも大きな喧嘩をしたことは何度かあった。
 その度にげんなりするのだが、ペルソナ使い同士のいさかいというのはとてもやりにくいものだ。なぜなら、相手の気配がはっきり分かってしまうので、とても気まずいのである。
 隣の部屋のうららの激怒のエナジーがビシバシと伝わって来るので、パオフゥは針のむしろに座っているような気分になる。
 いたたまれなくて、置きっぱなしになっていたつまみの空袋や空き缶などを拾って一箇所にまとめたり、明日使うものをベッドの端に並べたり、意味もなくテレビのチャンネルを変えてみたりなどした。
 ふとライティングデスクの下に目をやると、うららの旅行ガイドブックが落ちていることに気付いた。
 どうやら、走り去る時にカーペットの上に落として、奥の方へ蹴飛ばしてしまったらしい。
 パオフゥはそれを拾い上げて、折れ曲がった表紙を丁寧に元に戻してやった。それから、ほとんど無意識にページをパラパラとめくる。
 旅行が決まってから買ったのでまだ新しいはずなのだが、それにしては随分と読み込まれ、くたびれている。
 丁寧に貼られた付箋を辿ると、若者に人気のデートスポットや家族で楽しめるアクティビティ、おすすめパワースポットなど、とりわけ興味を惹かれたのであろう施設が厳選されていた。また、グルメ情報のページにもたくさんの目印が付けてある。
 いくつかの付箋には、小さく直筆でうららの文字が書き込まれていた。
 縁結び神社のページは、少しだけ重なった二個のハートマーク。苺の串団子とマスカットの串団子の写真には『はんぶんこ希望』とある。海浜公園のページの、二人乗りの自転車を紹介するコーナーには『乗りたい!』。
 巻末のレジャー占いは、蛍光ペンで印がつけられている。いて座……恋愛運、最高にハッピーな出来事の予感。横の付箋には『ファイト!』と書かれ、ニコニコマークが添えられていた。
 行き場のない想いを胸に抱いたまま、こんなささやかな落書きで心を慰めていたのか。いじらしさに胸が詰まる。それなのに、そんな彼女に、ハッピーどころかむごい仕打ちをしてしまった。
 やるせない気持ちになって、何も考えられないほど熱い熱いシャワーを浴びた。
 長い風呂から出る頃、うららの怒りの波動は哀しみのそれに変わっていたが、やがて徐々に小さくなっていき、共鳴は静かに途絶えた。おそらく、泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
 明日、起きたら本を手渡して、今までのことを謝ろう。それから、彼女が望むところへ一緒に行き、彼女の食べたいものを分け合って食べよう。そうすればきっと、帰りの飛行機の中では、また笑い合っていられるはずだ。
 まだ痛む鳩尾をさすりながら、息苦しい眠りの中にゆっくりと落ちて行った。

 目が覚めた時、うららは既にいなくなっていた。
 隣の部屋のドアは全開しており、その奥は既に清掃員が片付けた後だった。パオフゥは呆然とそれを見つめた後、自分の部屋のベッドに戻って大の字になった。
 虚ろな顔でポケットから携帯電話を取り出して鳴らすが、案の定、出るはずもない。
 一体、どこへ行った?
 パオフゥを置き去りにして、さっさと飛行機で珠阯レへ戻るつもりか? いや、今日は土曜日だ。フライト予定をキャンセルして当日予約し直しとなれば骨が折れるし、出費も倍ではきかなくなる。いくら顔を見たくないからといって、そこまでして自分の感情を最優先に動くとは思えない。
 そうなると、夜七時前には渋々でも空港に来るはずだ。それまで、十時間以上もある。うららの性格からして、せっかく遠路はるばる来てどこにも立ち寄らないということはないだろう。
 ならば、道中で捕まえて、強引にでも二人で観光して機嫌を直してやる。飛行機の中に険悪なムードを持ち込んでしまったら、もう挽回のしようがない。
 パオフゥは勢いよく起き上がり、チェックアウトの準備をして、急ぎ足でホテルを後にした。朝食付き料金がもったいない気はするが、呑気にビュッフェを満喫している場合ではない。
 うららが残していったガイドブックを見る。付箋の貼られたページが行き先候補であろうことは疑いようもない。どこだ。どこへ行った。
 やはり強く印象に残っているのは、縁結び神社だ。彼女自身も言っていた。たしか、天神さまにお参りして、縁結び神社に寄って、温泉に入るというプランだったはずだ。
 そのルートを辿ってみるか? しかし、それだとタイミング悪くすれ違いになって会えない可能性もある。
 やはりここは一点賭け……本命であると予想される縁結び神社で張り込みをするのが上策だろう。
 まさか、ホームタウンからこんな遠く離れた地でも人探しをするはめになるとは。しかも、そのターゲットはうららである。
 先回りできる可能性を少しでも高めるため、急いでタクシーを捕まえて飛び乗る。上手くいくといいのだが。

 春の陽気に誘われて、大勢の参拝客が談笑しながら行き交う境内。満開をとうに過ぎた桜が、風に乗って紙吹雪のように軽やかに舞っている。
 見るともなしに眺めていると、当然ではあるが、カップル客が多いようだ。老いも若きも仲睦まじそうに微笑みあい、あるいは照れてなんでもない風を装い、並んで歩いていく。スーツケースを携え、所在なさげに境内の隅にぽつんと独りで立っている男は、彼らの目にはどのように映るのだろうか。なんだか、卑屈な気持ちになる。
 時計の短針が頂点を過ぎても、探し人の姿は見えない。流石に腹が減ってしまい、休憩所で握り飯と唐揚げを買って食べた。
 昨日コンビニで買った緑茶を飲んでいると、キャップを被った年配の男に話しかけられた。
「兄さん、朝からずーっと鳥居ん近くんとこに立っとんしゃったね。待ち合わせね?」
 ポシェット以外に荷物はなく、ラフないでたちをしている。地元住民のようだ。
「いや。待ち合わせっつうか、俺が勝手に待ってるだけだが……」
「へえ、そりゃ大変やね。今日はちょっと暑かけん、のぼせんごと気を付けてな」
 男はアイスコーヒーを買って、パオフゥの斜め向かいのテーブルについた。
「いやあ、男一人で長く立っとうような観光客は珍しかもんで、つい話しかけてしもうて、すまんね」
 聞かれてもいないのに、男は続けて話しかけてくる。
「俺もね、待っとうとよ」
 秘密を打ち明けるような語り口に、パオフゥは思わず彼の目をじっと見返した。
「誰を?」
「喧嘩別れしてしもうた家内よ。ここの縁結びには世話になったもんで、もっぺんあやかりたくてなぁ」
「嫁さんに逃げられちまったのかい?」
「まあ、そうなるかなぁ」苦笑いを返される。「会いに行くこともできんほど、高ーい高ーい場所へ逃げられてしもうたけん。いつか迎えに来てくれるのを待つしかなかとよ」
 思っていたよりも、反応に困る話だった。パオフゥは神妙な顔をして頬を掻き、言葉を選んだ。
「……まあ、なんだ。ご利益があるんだろ。ここの神社は。きっとまた会えるし、来世でも一緒になれるだろうよ」
 欠けた歯をニッと見せて笑う嬉しそうな顔が、印象的だった。

 休憩所を出て社務所の前を通ると、人だかりができている。お守りやお札を求める長い行列は、境内の方まで伸びているようだ。修学旅行の学生たちも加わって、かなりの密集具合だ。
 普段の自分だったら「ケッ、なにがお守りだ。人間が作ったただの大量生産品じゃねえか。そんなもん有り難がって群れるなんて馬鹿馬鹿しいぜ。俺は買わねえぞ」と強く反発しただろう。
 だが、なんとなく、それを手に取りたい気分になったのだ。パオフゥは列に並んだ。
 あんな風に無理に迫らなければ、今日、うららと二人で仲良くここを訪れたかもしれない。だがその場合、うららの隣には、彼女が気持ちを押し殺し続けている理由をいまだ知らない愚かな自分が立っているわけだ。想像するだけで気分が沈む。
 恋愛の聖地におよそ似つかわしくない暗い顔をして、重い足取りで進むうちに、パオフゥは最前列に辿り着いていた。
 あれだけの人々が求めていったにもかかわらず、それをものともせず、まだまだたくさんのお守りが並んでいる。一番人気の縁結びお守りの他にも、交通安全、家内安全、合格祈願など、一通りの効用を網羅したラインナップだ。
 ふと、可愛らしいとんぼ玉の根付が目を引いた。紅白のグラデーションに小花模様の散りばめられたガラス玉が、小さな鈴と一緒に緑の紐で結わえられている。まるで、彼の探し人のためにあつらえたようなカラーリングだった。
 パオフゥはそれを指差した後、一瞬迷って……縁結びのお守りも選び、手に取った。

 夕方になると辺りは急に涼しくなって、パオフゥは脱いでいたジャケットに再び袖を通した。
 ギリギリまで待ってみたが、そろそろ、タイムリミットだ。
(待ち人来たらず……か)
 残念ながら、読みが外れたようだ。無為な時間を過ごしてしまったが、こちらは三年も待たせてしまったのだから、この程度の罰を受けるぐらいは仕方あるまい。
 境内を出て駅へ向かうバスに揺られていると、うっすらと茜色に染まった異郷の街並みが胸の中の寂寞せきばくをかき立てる。認めたくはないが、認めざるを得ない。うららに会えなかったことが、うららと旅の思い出を作れなかったことが、うららがいま隣にいないことが、淋しくてしょうがない。
 バスを降りて電車に乗り、駅から直接繋がる空港へと足を踏み入れる。
 なんだか、緊張してきた。うららはもう、出発ロビーにいるだろうか? ゆうべ、あんな別れ方になってしまった彼女と、どんな顔をして再会すればいいのだろう。何を話せば伝えられるだろう。
 思い悩むパオフゥの目の端に、鮮やかな看板がちらりと映り込んだ。空港内のスイーツショップだ。
 大きく掲示された写真を見て驚いた。
「こ、これはガイドブックで見たやつじゃねぇか」
 ポップな字体で“フレッシュな苺とマスカットを使ったフルーティーな串団子” “話題沸騰! 雑誌に掲載されました”と書かれている。期間限定で空港内に出店しているらしい。
 迷うことなく店に入り、それぞれの種類を一本ずつ包んでもらう。
 ビニール袋をぶら下げながら、しかし、不安になる。こんな目に付くところに店が出ているのだから、もう、うららは一人で食べてしまったかもしれない。もし迷惑そうな顔で「いらない」と言われたら、精神にダメージを負ってしまいそうだ。
 他のショップでも知り合いへの土産をいくつか見繕って適当に買い、スーツケースに押し込んだ。
 チェックインをして、検査場へ向かう。
(いるな……)
 もう感じる。彼女のペルソナとの共鳴を。やはり、すでに出発ロビーに到着していたようだ。
 動揺が伝わらないように、何度か深呼吸をして、冷静を装う。
 うららは、ロビーに並ぶソファの最後列、一番手前の端に座っていた。足を組んで軽く背もたれに体を預け、まっすぐな目で窓の向こうの滑走路を眺めている。
 なんとなく近寄りがたい雰囲気を感じるが、パオフゥは意を決してソファに近付き、一人分開けてその横に座った。
「……」
「……」
 交わす言葉はない。互いに間合いを取る剣客のように、緊張をはらんだ沈黙が続いた。
 一言目の言葉を間違えれば、即、終わってしまう。けれど、何を言うのが正解なのか、まだパオフゥには確信が持てない。
 『悪かった』?『お前がいなくて淋しかった』?『今日一日、ずっと探してたんだぜ』?
 何を言っても怒らせてしまいそうな気がして、声に出すことができない。
 しばらく迷っていると、珠阯レ行き十九時三十分発フライトの優先搭乗のアナウンスが流れ始め、パオフゥは焦った。
 このままでは、無言のままで離陸し、無言のままで解散することになってしまう。それだけは駄目だ。言葉が思い付かないなら、もう、行動で示すしかない。
 ままよ、とばかりにうららの前に紙袋を突き付ける。
「!」
 彼女は目を見開いて袋とパオフゥに視線を寄越し、だが警戒は緩めずにそれを受け取った。
 中を覗くと、赤い縁結びのお守り、それに可愛らしいガラスの根付けが入っている。
「……私に?」
 ああ、と囁くような声でパオフゥは返事をした。
 うららは怒気を削がれたのか、とんぼ玉を指でつまんでじっと眺めたり、手のひらに乗せたり、軽く揺すってチリチリとしたか細い鈴の音を立てたりしている。
「一人で買いに行ったわけ?」不機嫌であるとも、いぶかしんでいるとも取れるような声音だ。
「買いに行ったというか、待ってるついでに買ったというか」
 ごにょごにょと答えると、うららの目が丸くなる。
「待ってたの? あの神社で? 私が行きたいって言ってたから、来るかもと思って?」
「まあ」
「どれくらい?」
「……」
 まさか朝から夕方までずっと待っていたとは言えず、口をつぐんでしまった。
「ふぅん。そうなんだ」
 答えが返らなくとも、うららは察したようだった。目を伏せ、ほんの少しだけ嬉しそうな色をにじませた……かと思いきや、そんなことではほだされないぞとばかりに、尊大な様子で顔を上げる。
「ま、アンタがどこほっつき歩いてようがどーでもいいわ。私はバッチリ観光楽しんじゃったもんね」
 勝ち誇った顔でフン、と笑っている。
「どこ行ってたんだ?」
「タワー登ってきたのよ、タワー。展望台から海も山も見えて最高の見晴らしだったわよぅ。絶景を堪能しながらラウンジで豪華なランチ食べて、もう気分はセレブって感じ。ウィンドウショッピングもいっぱい楽しんじゃったし、言うことなしね。満喫しちゃった」
 そっちは完全にノーマークだったな、とパオフゥは思った。読み切れなかったのは痛恨のミスだが、仕方ない。なにせ、そもそも彼女の本心を量ることができなかった男なのだから。
「そうか」
 それだけ言って、黙った。
 優先搭乗が終わり、これより一般搭乗を開始する旨のアナウンスが流れる。そこかしこで待っていた人々が、波のように一箇所を目指して動き出したかと思うと、たちまち列をなした。
 うららはため息をついて、立ち上がった。パオフゥのスーツケースを避けて、搭乗口へ向かおうとする。しかし、横から伸びてきた手に腕を掴まれ、はばまれる。
「やっ、ちょっと……何すんのよ。離しなさいよ」
 振り解こうとする手に、パオフゥはビニール袋を握らせた。
「な、何よこれ」うららは面食らって、おそるおそる持ち手を広げた。手を入れて、ファンシーな色をした串団子を取り出す。「……これも買ってきたの?」
「空港の入り口で売ってたが、気付かなかったのか?」
「……全然気付かなかった」
 気まずそうに目を逸らす。うららはうららで、周りの店など見ている余裕がないほどの精神状態だったらしい、と悟った。よく見れば、ウィンドウショッピングをたっぷりしたと豪語する割には手荷物も少ない。
「昨日、ガイドブック置いてったろ、俺の部屋に。それで」
「あーーーーーっ!!」言い終わる前に物凄い形相ぎょうそうでうららが叫んだ。「あ、あ、アンタ、中見たの!? 最低、火事場ドロボー、プライバシーの侵害、デリカシーゼロ男!!」
「なんだよ、ドロボーって。後でちゃんと返すさ。それに、別に見てまずいようなもんは書かれてなかったぜ」
「そんなわけないでしょ、だって、だってさ、色々……」
 真っ赤になって言葉を失っている。
「食いたかったんだろ? このフルーツ団子」
「……そりゃ、まあ」
「半分こ、しようぜ。飛行機ん中で」パオフゥは困ったように笑った。「もし、お前さんが俺を許してくれるんなら……だが」
 眉をハの字にしたうららが、唇を尖らせる。
「なによ。貢ぎ物作戦ってわけ? お守りに、キーホルダーに、団子。そりゃま、貰えるもんは貰うけどさ。なんか、ちょっと誠意、足りないんじゃない?」
「誠意、か。分かった」真剣な目でうららを見つめて、きっぱりした声で言い放つ。「何でもしてやるよ。俺にできることならな」
 うららも、パオフゥの目をじっと見つめた。
 迷いながら口を開く。
「えっと。じゃあ、さ。あのルール、撤回、してほしいんだよね」
「ルール?」
「その。……恋愛御法度、のやつ」照れに負けて、目を逸らしてしまったうららは、前髪をいじりながら下を向いた。「もうバレちゃったんなら、意味ないでしょ」
「ああ、分かった。撤回するぜ。……悪かったな、無責任なこと言っちまって」
 珍しくストレートな謝罪の言葉に、うららの緊張はようやく解れ、ほっと息をついた。
 その様子を見つめるパオフゥも、やっと二人の間のわだかまりが溶けるのを感じ、心から安堵した。
「でもさ、なーんか不公平だよね」うららが、不満そうに腕組みをする。「私ばっかり追い詰められて、うっかりゲロさせられちゃったってことでしょ? せっかく解禁になったんだから、パオもなんかゲロっちゃえばいいのに。実は俺もお前のことが好きだ! とかさ」
「なんだそりゃ」
「よく考えたら、パオの誠意ってしょっぱいわよね。『ルール撤回します、ゴメンネ』で終わりなわけぇ? 私のこと、どう思ってるのかぐらい、教えてくれても良くない? あんな際どいことしといてさ、何とも思ってません、ってことはないでしょ?」
 やれやれ、といった感じでため息をつき、パオフゥは立ち上がった。
「そろそろ搭乗しねえと、置いてかれちまうぜ」
「なによぅ。誤魔化そうったって、そうは……」
 パオフゥの前に回り込もうとしたうららは、彼が胸ポケットからこれ見よがしに何かを出し、ニヤリと笑うのを見た。
 白い、縁結び神社のお守り。
 それはうららの赤いお守りとペアでデザインされた、恋守りの片割れだった。その意味を考えようとして、うららの思考は停止した。
「さ、行くぞ」
 スーツケースを引く彼の足取りは軽い。
 取り残されたうららは我に返り、慌ててその後を追いかけた。
「ちょ、ちょっと、それ、意味分かってやってるのよね!? そんでコメントはないわけ、コメントは!? 何なのさ、人のコト引っ掻き回してくれちゃって。ほんと、……アンタって、ワケわかんない男!!」

 空は晴れ渡り、月を浮かべた満点の星空シアターが広がっている。
 どうやら帰り道も、楽しく……そして、最高にハッピーなフライトになりそうだ。